黄庭堅が生きていた北宋(960年~1127年)という時代は、貴族的文化の社会構造への反抗として、科挙によって選抜された士大夫たちによる新しい文化が芽生えます。
書の分野でも、それまでの守旧的なものに対して、精神の自由な発露を革新的な表現に盛ろうとする者たちが現れました。
黄庭堅もその1人です。
今回は、黄庭堅の人生を理解し、彼の書にどのような思いが込められているのかを考えていきます。また、代表作品も紹介していきます。
黄庭堅の基本情報
黄庭堅(1045~1105)は、北宋の政治家・詩人・書人です。1045~1105(慶暦5~崇寧4年)。
字は魯直、雅号を山谷、涪翁などと称しました。洪州分寧(江西省修水県)に生まれました。
蔡襄・蘇軾・米芾らとともに「宋の四大家」、または蔡襄を抜いた蘇軾・米芾・黄庭堅の3人で「宋の三大家」と呼ばれ、後の書法史に大きな影響を及ぼしました。
また、文や詩が得意で、故郷の江西を中心とした江西詩派の盟主でもあります。
父の庶は広東康州知事、母は名高い学者・李常の娘でした。
幼少の頃から才能にあふれ、李常がためしに架上の書を取って聞いてみたところ、すべてを暗唱していたといいます。
また、母親が病気にかかった際には、自分の衣服を替えることもせずに昼も夜も看病するなど、その孝行ぶりは世間に言いふらされるほどでした。
黄庭堅の人生/どんな人だったのか
黄庭堅は、22歳の若さで科挙(官僚登用試験)に合格します。官僚としてエリートコースを歩むはずでしたが、当時、新法党と旧法党の党争の時代であり、黄庭堅も党派抗争に巻き込まれて複雑な足跡を残しました。
地方勤務での蘇軾との出会い
新法党が権力を握っていた熙寧・元豊年間には、北宋の陪都(国都以外に別につくった都)の1つである北京(現在の河北省大名県)の国子監教授(教育行政機関の教授)となります。
8年間国子監教授を務め、この間に元豊元年(1078)、「宋の四大家」の1人である蘇軾に詩を贈り才能を評価され、親交を結びました。
地方官をへた後、1085年(元豊8)、中央にもどりました。
秘書省校書郎、江西・湖北知事などの官職を歴任しました。
中央政府で活躍する
元佑年間、旧法党が権力を握る時代になると、秘書省の校書郎、『神宗実録』の検討官、著作佐郎をへて起居舎人に抜擢されますが、母親が亡くなったため喪に服し、慎んだ生活を送りました。
黄庭堅は母親に孝を尽くしたことから、「二十四孝」の1人に数えられています。
喪が明けると、秘書丞や国史編修官となりました。
度重なる左遷
紹聖元年(1090)、再び新法党が政権の座についたとき、編纂にたずさわっていた『神宗実録』中に、新法党を非難したところがあるという罪状で、四川省の涪州や黔州・戎州に左遷されました。
徽宗皇帝が即位(1100)したときに罪が許されて、朝秦郎・権知舒州などに任官しましたが、崇寧2年(1103)には、国政を批判したということで、また広西省、さらに湖南省への流罪となり、その地で病気で亡くなりました。
これら晩年の官界での不遇と、黄庭堅の名品として現存している書跡の多くが晩年期に書かれたものとというのはなにか関係があるのかもしれません。
黄庭堅は、師匠である蘇軾の「水が清らかに渓間を流れていくよう」な自然さに対して、「行者が険しい岩壁をよじ登っていくよう」であるといった評価がされます。
黄庭堅は30代後半ごろに禅道を学びだし、飲酒・肉食・淫欲を断つことを誓いました。
自分を厳しく律し、1つ1つの段階を踏みしめるように、繰り返し過去を顧みながら修練に努める姿勢は、日本の鎌倉・室町の禅僧に熱烈な追随者を生みました。
黄庭堅の代表作品:松風閣詩巻(しょうふうかくしかん)
そうした黄庭堅晩年の書には、厳しい自己否定と、何度も遠方へ流された陰鬱さがにじみ出ています。代表される最も有名な作品が「松風閣詩巻」です。
「松風閣詩巻」は、徽宗の崇寧元年(1102)、左遷さきの湖北省鄂城県の樊山の景色を愛し、その山中の楼閣に松風閣と名づけた時の自作の詩を書いたものです。
顔真卿や柳公権の筆意を取り込み、重厚な書風で円熟した境地を見せています。
波打つような横画や左右の払いなどは、他に類を見ない黄庭堅独自の表現で、不遇に耐える強い意志の力を感じさせられます。
このような書風がどのように形成されたのかはわかりませんが、黄庭堅が書の上で掲げたものは、「俗気を脱する」という自信の人生の指針を同じ高潔な志であり、濁らない美しさでした。
黄庭堅の書は、晩年の度重なる左遷に抗う屈強な精神力と、ひたすらな鍛錬と禅の修養が同時に作用しながら完成したものなのです。
黄庭堅の清廉な生き方は、小事に追われて日々生きている時代の私たちにとっても、心に留めておきたいものではないでしょうか。
その他の代表作品
寒山子龐居士詩巻(かんざんしほうこじしかん)
寒山子龐居士詩巻は、元符元年(1098)、黄庭堅が戎州に左遷されている時に書いたものです。
張通の作った筆を試しつつ、法聳上座のために唐時代初期の寒山子の勧戒詩と、同じく唐時代中期の龐居士の詩の2首を書いたものです。
諸上座帖(しょじょうざじょう)
諸上座帖は、五代の僧・文益の語録を節録し、李任道という人に書き与えた作品です。
語録の部分は狂草風で書き、末の識語13行は「松風閣詩巻」とよく似た行書で書かれています。
王史二氏墓誌銘稿(おうしにしぼしめいこう)王長者墓誌銘稿
王史二氏墓誌銘稿は、「王長者墓誌銘稿」と「史翊正墓誌銘」の2つをあわせたものをいいます。小文字の行書で書かれた草稿です。
内容は、王長者と史翊正という人の墓誌で、書写年代は明記されていませんが、それぞれの死後まもなくのことと推測されます。
李太白憶旧遊詩巻(りたいはくおくきゅうゆうしかん)
李太白憶旧遊詩巻は、唐時代の詩人・李白の「憶旧遊寄譙郡元参軍」の詩を書いた作品です。
ただし巻頭80字を欠損しています。これも書名はありませんが、古くから黄庭堅の真跡とされています。