書家法帖

黄庭堅(こうていけん)の人生とその作品:松風閣詩巻

書家

こんにちは、中村です。

黄庭堅が生きていた北宋ほくそう(960年~1127年)という時代は、貴族的文化の社会構造への反抗として、科挙によって選抜された士大夫したいふたちによる新しい文化が芽生えます。

書の分野でも、それまでの守旧的なものに対して、精神の自由な発露を革新的な表現に盛ろうとする者たちが現れました。

黄庭堅もその1人です。

今回は、黄庭堅の人生を理解し、彼の書にどのような思いが込められているのかを考えていきます。

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黄庭堅の人生

黄庭堅こうていけん(1045~1105)は、洪州こうしゅう分寧(江西こうせい修水しゅうすい県)に生まれました。

あざな魯直ろちょく雅号がごう山谷さんこく涪翁ふうおうなどと称しました。

蔡襄さいじょう蘇軾そしょく米芾べいふつらとともに「北宋の四大家」と呼ばれ、後の書法史に大きな影響を及ぼしました。

また、文や詩が得意で、故郷の江西を中心とした江西詩派の盟主でもあります。

父の庶は広東かんとん康州こうしゅう知事、母は名高い学者・李常りじょうの娘でした。

幼少の頃から才能にあふれ、李常がためしに架上かじょうの書を取って聞いてみたところ、すべてを暗唱していたといいます。

また、母親が病気にかかった際には、自分の衣服を替えることもせずに昼も夜も看病するなど、その孝行ぶりは世間に言いふらされるほどでした。

23歳の若さで科挙に合格します。北京ほくけい(現在の河北省大名県)国子監教授、秘書省校書郎、江西・湖北知事などの官職を歴任しました。

北京国子監教授だった元豊元年(1078)、蘇軾そしょくに詩を送り、その後、師弟の交わりを結びました。

度重なる左遷

中年以降、王安石おうあんせきが率いる新法党と反新法党との党派抗争の渦中に巻き込まれます。

黄庭堅は、紹聖元年(1090)、新法党が政権の座についたとき、編纂にたずさわっていた『神宗実録』中に、新法党を非難したところがあるという罪状で、四川省涪陵ふりょう左遷させんされました。

徽宗皇帝が即位(1100)したときに罪が許されて、朝秦郎・権知舒州などに任官しましたが、崇寧2年(1103)には、国政を批判したということで、また広西省、さらに湖南省への流罪となり、病気で亡くなりました。

これら晩年の官界での不遇と、黄庭堅の名品として現存している書跡の多くが晩年期に書かれたものとというのはなにか関係があるのかもしれません。

黄庭堅は、師・蘇軾の「水が清らかに渓間を流れていくよう」な自然さに対して、「行者が険しい岩壁をよじ登っていくよう」であるといった評価がされます。

黄庭堅は30代後半ごろに禅道を学びだし、飲酒・肉食・淫欲いんよくを断つことを誓いました。

自分を厳しく律し、1つ1つの段階を踏みしめるように、繰り返し過去を顧みながら修練に努める姿勢は、日本の鎌倉・室町の禅僧に熱烈な追随者を生みました。

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黄庭堅の代表作:松風閣詩巻

そうした黄庭堅晩年の書には、厳しい自己否定と、何度も遠方へ流された陰鬱さがにじみ出ています。代表される最も有名な作品が「松風閣詩巻しょうふうかくしかん」です。

「松風閣詩巻」は、徽宗きそう崇寧すうねい元年(1102)、左遷さきの湖北こほく鄂城がくじょう県のはんざんの景色を愛し、その山中の楼閣に松風閣と名づけた時の自作の詩を書いたものです。

顔真卿がんしんけい柳公権りゅうこうけんの筆意を取り込み、重厚な書風で円熟した境地を見せています。

波打つような横画や左右の払いなどは、他に類を見ない黄庭堅独自の表現で、不遇に耐える強い意志の力を感じさせられます。

このような書風がどのように形成されたのかはわかりませんが、黄庭堅が書の上でかかげたものは、「俗気を脱する」という自信の人生の指針を同じ高潔な志であり、濁らない美しさでした。

黄庭堅の書は、晩年の度重なる左遷にあらがう屈強な精神力と、ひたすらな鍛錬と禅の修養が同時に作用しながら完成したものなのです。

黄庭堅の清廉な生き方は、小事に追われて日々生きている時代の私たちにとっても、心に留めておきたいものではないでしょうか。

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