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北宋の四大家から蔡襄(さいじょう)が外されて三大家になった理由

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宋の三大家とは蘇軾そしょく黄庭堅こうていけん米芾べいふつであり、この三人に蔡襄さいじょう(1012~1067)を加えて四大家と呼んでいます。

北宋の仁宗じんそう(北宋の第4代皇帝)のころから新しい書風がおき、そのような中で特に良い書を遺し、以後の書の世界に大きな影響を与えたのが彼らでした。

しかし、最近では四大家の1人である蔡襄さいじょうが外されて三大家と呼ぶのが普通になってきています。

今回は、どうして四大家から蔡襄さいじょうが外されてしまったのかを考えていきます。

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四大家から外された蔡襄という人物について

蔡襄 尺牘 (陶生帖)
蔡襄 尺牘 (陶生帖)

以前は四大家という言い方が普通でしたが、最近は三大家という言い方に変わってきています。

四大家の中で蔡襄さいじょうが一番早く生まれ、彼は三大家の先駆けとなります。

仁宗じんそう皇帝の景祐けいゆう慶暦けいれきといった政権の奪い合いが激しい時代に、革新派官僚の1人として活躍し、彼は政治的にも北宋の士大夫したいふを代表する人物であり、四大家の1番目にあげられるのです。

しかし、彼の書風は旧派であり、最近は蔡襄を外して三大家という言い方が普通になっています。

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四大家の蔡襄は別の人だったかもしれない?

蔡襄 致杜君長官尺牘
蔡襄 致杜君長官尺牘

明末の収蔵家である張丑ちょうちゅうが興味深い記述を残しています。

宋人の書は 蘇・黄・米・蔡というけれど、このとは蔡京さいけい(1047~1126)のことである。

後世の人はの人となりを嫌って避け、蔡襄に変えてしまったのだ。

また、明の安世鳳あんせいほうは『墨林快事ぼくりんかいじ』で、

蔡下さいべん(1058~1117)は蔡京よりも優れ、蔡京蔡襄よりも優れているが、今日の人々は蔡襄以外は知らないと言っている。

蔡京蔡襄と同族であり、息子の蔡絛さいとうによると、筆法を蔡襄から受けたと伝わっていて、弟の蔡下とともに字が上手かったそうです。

しかし、『宋史』の姦臣伝かんしんでんという伝記によると、蔡京蔡下の2人は北宋の末の人で、政治をないがしろにし、北宋滅亡の一因を作ったというのが伝統的な評価です。

人格主義的な見方で、これは伝統的な評価の仕方と言えます。

書を評価する際、人格によって作品を評価することが多いです。

つまり、北宋滅亡の一因を作った2人の書の評価は一般には低いということになります。

蔡京が四大家から外れてしまい、代わりに蔡襄が入ったというのは可能性としてはあり得ると思われます。

このような伝統的な評価もあって、2人の作品で伝存しているものは少なく、2人について書かれた文章も少ないです。

そのため彼らの書道史的位置づけが未解明なのです。

つまり、蘇・黄・米・蔡のうちの「」とは、蔡京蔡襄・蔡下のうちだれを指しているのか明確な理由はなく、蔡襄の記録が多かったため、北宋の四大家には蔡襄が加えられたとも考えられるわけです。

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