「宋の四大家」とは、北宋時代に活躍した書人、蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾の4人の総称のことをいいます。
北宋の仁宗(北宋の第4代皇帝)のころから新しい書風がおき、そのような中で特に良い書をのこし、以後の書の世界に大きな影響を与えたのが彼らでした。
しかし、最近では四大家の1人である蔡襄が外されて三大家と呼ぶのが普通になってきています。
今回は、蔡襄について解説、作品紹介、さらにどうして四大家から蔡襄が外されてしまったのかを紹介します。
蔡襄について解説
蔡襄(1012~1067)。字は君謨、諡を忠恵といいます。福建省莆田の人です。
天聖8年(1030)年に科挙(官僚登用試験)に合格して進士となり、仁宗皇帝からの信頼が厚く、翰林学士などの要職に就きましたが、英宗が皇帝になると、皇帝からの嫌疑を受け、端明殿学士として、杭州(浙江省)にしりぞけられ、その地で病気により亡くなりました。
諡を忠恵といいます。
書人としての蔡襄
蔡襄は、政治家、文学者また茶人としても有名でしたが、正史では書について「当時の第一人者で、仁宗はことに愛好した」といい、また欧陽脩が「当代に独歩する」と称えているように、いまでは書人として有名な歴史上の人物です。
彼は顔真卿・王羲之・王献之(その息子)、そして唐時代の諸家を学びました。
書いた書体は、篆籀(篆書)・飛白(波打つような筆遣いをする書体)・狂草(はげしい草書)にいたるまで、いろいろな書体をこなしたといいます。
とくに、「飛草(飛白体の書法で草書を書いたもの)」といわれる作品は自分でも気に入り、蘇軾らも称賛しています。
しかし、残っている作品は楷書・行書・草書のものしかみられません。
蔡襄は「行書が一番すぐれ、第二が小楷(小筆で書いた小さい楷書)、第三が草書、そして大字とつづき、分隷(隷書)はやや劣る」と評価されています。
蔡襄の作品を紹介
謝賜御書詩表
謝賜御書詩表は、蔡襄が仁宗皇帝に奉った書です。
皇祐4年(1052)、「君謨」という字を仁宗皇帝が蔡襄に贈り、蔡襄がその名誉を授かり、感謝の意を表して七言律詩一首を添えました。
ゆったりとした運筆で落ち着いた雰囲気があります。
澄心堂紙帖
澄心堂紙帖
書写年代が明記されており、嘉祐8年(1063)です。
王羲之の行書をベースとしていて、質厚で、謹直な書きぶりながら、おおらかにかまえ、ゆとりがあります。
釈門:澄心堂紙一幅。闊狹厚薄堅實皆類此乃佳。工者不願為。又恐不能為之。試與厚直莫得之。見其楮細。似可作也。便人只求百幅。癸卯(西元一0六三年)重陽日。襄書。
扈従帖
扈従帖
治平元年(1064)ごろの作品です。年紀はありませんが、文中、公謹(李端愿)の官名によって、治平元年前後とみられています。
切れ味の良い速筆ながら、危うげな字形は1字もなく、しかも格調の高い書風です。
陶生帖
陶生帖
書写年代はわかっていません。
草書で書かれてた作品はいくつかありますが、連綿体の作品はめずらしいです。
文字の大小、肥痩強弱の変化をはかっています。
釈門:襄示及新記。當非陶生手。然亦可佳。筆頗精。河南公書。非散卓不可為。昔嘗惠兩管者。大佳物。今尚使之也。耿子純遂物故。殊可痛懷。人之不可期也如此。僕子直須還。草草奉意疎略。正月十一日。襄頓首。家屬並安。楚掾。旦夕行。
「宋の四大家」から蔡襄がはずされて「三大家」と呼ばれるようになる
「蔡・蘇・黄・米」つまり蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾の順で、「宋の四大家」と呼ばれてきました。ちなみに「宋の四大家」という呼び方がいつごろから使われるのかは、はっきりとしていません。
四大家の中で蔡襄が一番早く生まれ、彼はあとの3人の先駆けとなります。
仁宗皇帝の政権の奪い合いが激しい時代に、革新派官僚の1人として活躍し、彼は政治的にも宋代の士大夫を代表する人物であり、四大家の1番目にあげられるのです。
しかし、蔡襄は蘇軾・黄庭堅・米芾のように新しい書風をもっていたわけではありません。
蔡襄の書風はほかの3人にくらべると古典主義すぎるため、近年では「四大家」とはいわず、蘇軾・黄庭堅・米芾の3人で「三大家」と呼ばれています。
四大家の蔡襄は別の人だったかもしれない?
従来、蔡・蘇・黄・米で宋の四大家と呼んできましたが、この「蔡」とは蔡襄のことではないという説があります(明の張丑より)。
明末の収蔵家である張丑が興味深い記述を残しています。
宋人の書は 蘇・黄・米・蔡というけれど、この蔡とは蔡京(1047~1126)のことである。
後世の人は蔡京の人となりを嫌って避け、蔡襄に変えてしまったのだ。
また、明の安世鳳は『墨林快事』で、
蔡下(1058~1117)は蔡京よりも優れ、蔡京は蔡襄よりも優れているが、今日の人々は蔡襄以外は知らないと言っている。
とあります。
蔡京は蔡襄と同族であり、息子の蔡絛によると、筆法を蔡襄から受けたと伝わっていて、弟の蔡下とともに字が上手かったそうです。
しかし、『宋史』の姦臣伝という伝記によると、蔡京・蔡下の2人は北宋の末の人で、政治をないがしろにし、北宋滅亡の一因を作ったというのが伝統的な評価です。
人格主義的な見方で、これは伝統的な評価の仕方と言えます。書を評価する際、人格によって作品を評価することが多いです。
つまり、北宋滅亡の一因を作った2人の書の評価は一般には低いということになります。
このことから、蔡京が四大家から外れてしまい、代わりに蔡襄が入ったという張丑の言葉は可能性としてあり得るのではないでしょうか。