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呉昌碩の代作をまかされた趙子雲(ちょうしうん)とはどんな書画家だったのか

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書画家として成功した呉昌碩ごしょうせきのもとには、たくさんの弟子がつき従ってきました。

弟子たちの目標は、自分も呉昌碩のように書画家として作品を売り、経済的に成功することです。

よって必然と弟子たちの書画作品は呉昌碩とそっくりになります。

そのなかでもとくにそっくりな書画を書き、代作までこなしたのが趙子雲ちょうしうんです。

今回は、趙子雲について解説していきます。

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趙子雲について

趙子雲ちょうしうん(1874~1955)、初名は龍、呉昌碩に入門したタイミングで起と改名しました。

一般にはあざなの子雲で呼ばれています。

趙子雲が呉昌碩と出会うまで

清時代の同治13年(1874)12月16日、江蘇こうそ県(蘇州)に生まれました。

父の趙玉峰は漁師でしたが、母の張氏は学問をたしなんでいたため、子雲は母の影響を受け、読書と書画を好み、成長するにつれて画家を目指すようになりました。

しかし、貧しかったため手本とするべき木刻版の画譜が買えず、近所の表具店の中で書画を臨模りんもしていいたところ、店の人が同情して画を貸してくれるようになったので、このおかげでさらに臨模にとりくみ、画の基礎を身に付けました。

その後、蔣先農、秦子卿、李農如に花鳥画を、許子振に山水画を学び、20歳になったばかりのころ、当時蘇州に放浪していた任立凡に師事して山水、人物、仕女、花鳥、走獣など広く学び、さらに書道と篆刻も学びました。

このように、趙子雲の画は大きく進歩し、任立凡の推薦により蘇州で画を売るようにまでなりました。

趙子雲が呉昌碩の弟子となってから

そして1903年、30歳のとき、当時蘇州に住み、画家として名を広めていた呉昌碩(そのとき60歳)の門に入ることとなります

そこからは趙子雲はひたすら師・呉昌碩の画風を追求し、作風的にも人物的にも呉昌碩に夢中になっていきました。

1910年、呉昌碩はそんな自分を追い求めてくれていて画の技術も高い趙子雲に、上海に行って作品を売るよう命じます

上海についた趙子雲は、後に呉昌碩のパトロン的存在になる実業家、書画家の王一亭おういっていや、書画文房具の老店しにせである朶雲軒の主人・孫吉甫そんきっぽなどの援助のもと、潤格じゅんかく(揮毫料一覧表)を印刷配布して精力的に書画家活動を行い、約半年で上海での基盤を固めました。

そして趙子雲は半年ぶりに蘇州に帰って、師・呉昌碩に上海での状況を報告すると、翌年1911年、呉昌碩も蘇州から上海に出てきたのです。

つまり、呉昌碩が趙子雲を上海へ行かせたのは、自分が上海に進出するためのテストだったのでした

上海から蘇州へもどる趙子雲

1932年、上海事変が起こり情勢が不安定なっていたこと、さらに息子の漁邨りょうそん動悸どうきを患い、上海の騒々しさをいやがったことから、趙子雲はこれまでの貯金と作品を値引きして急いで作った所得を加えて、故郷の蘇州に新築を立て、1933年に移住しました。

蘇州にもどってからは、小園で植物を栽培したり、雲社という書画団体を結成し、1945年の春には第1回の展覧会を開いたり、充実した時を送っていました。

しかし、1937年11月、日本軍が蘇州に侵略し、趙子雲は家族をつれて避難を強いられました。

半年後、家に戻ってみると、建物はこわされ、小園は隣の小学校の運動場にされてしまっていました。

趙子雲の日本軍への怒りは大きかったでしょう。のちに日本の某大学が趙子雲を中国画の教員として招こうとしましたが、趙子雲はきっぱりと断ったといいます。

そんな苦難の戦争が終結したころには、趙子雲はすでに70を超えており、1949年5月、蘇州は中国共産党によって解放され、そのとき76歳になっていましたが、まだ筆をふるっていました。

1955年1月4日、82歳、蘇州で病気により亡くなりました。

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作画において趙子雲は呉昌碩より優れていた?

呉昌碩は文人出身の画家であり、そもそもは、なりたくて画家になったわけではありませんでした。

「私が画を学ぶのは、肉飯のためだ」と呉昌碩は言っています。

当時の社会においては、刻印や書の揮毫では収入が少ないため菜飯(安い飯)しか食べることができず、画を作ることによってやっと肉飯を食べることができたのです。

実際、呉昌碩は生活のため、50歳を過ぎてから本格的に画を学び始めています。

そんな50歳になってからでは技術的に限度があるでしょう。

それに対して、趙子雲は若いころからすでに何人かの専門画家に指導を受けており、呉昌碩に入門した30歳のころにはすでに相当な腕前で、作品も売っていました。

おそらく技術面に限っていえば呉昌碩より優れていたでしょう。

そんな素人に近い呉昌碩と、すでに作品を売ることができる弟子という関係がスムーズにいくはずがありません。

呉昌碩は入門したての趙子雲に、
「画種があまりにも多いのはよろしくない。あまり多いと奥深さを出しがたい」

と言ったそうですが、これはすでに山水、人物、仕女、花鳥、走獣などなんでもこなす弟子に対する牽制にしか思えません。

なぜなら草花の画しかよく描けない呉昌碩にとって、それ以外は師として弟子に指導のしようがないからです。

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呉昌碩の代作をまかされる趙子雲

呉昌碩は画においては、とくに山水を描くのが苦手でした。

昔から中国画のもっとも代表的な画種とされてきた山水が苦手なのは、画家としては致命的欠陥です。

画家であれば山水の依頼は必ず来るからです。

呉昌碩は「山水は素人」と公言したり、山水の揮毫料を草花の3倍にしたりして山水の依頼を来ないようにしましたが、それでも山水の依頼はなくなりませんでした。

最終的に、しかたなく趙子雲に代作をさせたのでした。

晩年には、苦手な山水ばかりでなく、得意は草花の代作もさせていたことが記録に記されています。

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ひたすら師を敬い、追い求めた趙子雲

趙子雲は毎年大みそかになると、先祖への祭事を行ったあと、必ず別にテーブルを用意し、酒菜をさなえて恩師呉昌碩への祭事を行い、あわせて子や孫、学生をひきいて礼拝をしていたといいます。

こういった行為から、師からの学恩に対する感謝、謙虚な姿勢、師への親しみ、偉大なる師の弟子であるという誇りが感じられます。

呉昌碩と趙子雲の師弟関係は、趙子雲の方が作画に優れているという矛盾がありましたが、趙子雲は呉昌碩の弟子であり続ける道を肯定的に選んでいたのです。

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