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呉昌碩について解説【石鼓文の臨書作品についても解説】

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詩・書・画・篆刻の四芸に優れており、日本でも早くから多くの愛好者がいる呉昌碩ごしょうせき

清朝末期から中華民国初期に活躍した人で、中国最後の文人と言われています。

また呉昌碩は、書画は趣味であって、売ることを前提にしない今までの文人の枠を超え、書画作品を売って生計を立てる職業書画家の先駆者でもありました。

こういった文人であり書画家として、呉昌碩は上海派しゃんはいはと呼ばれる書画だんの中心人物となりました。

今回はそんな呉昌碩についてどんな書家だったのか、彼の人生を紹介していきます。

さらに、呉昌碩といえば石鼓文の臨書ですよね。そのことについても書いていきます。

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呉昌碩の基本情報

呉昌碩

呉昌碩ごしょうせき(1844年9月14日生~1927年11月6日没)

浙江省せっこうしょう安吉県あんきつけん鄣呉村しょうごそん生まれ。

名前はしゅん、後に俊卿しゅんけいといい、あざな香補こうほ倉碩そうせき倉石そうせき、中華民国になってからは昌碩しょうせきとし、雅号がごう缶廬ふろ老缶ろうふ老蒼ろうそう苦鉄くてつ大聾たいろう石尊者せきそんじゃ破荷亭長はかていちょう五湖印匄ごこいんかつなどがあります。

祖父えん、父辛甲しんこうともに挙人(科挙の地方試験合格者)であり、下級官吏かんり(役人)ではありましたが、いわゆる読書が盛んな家に生まれました。

しかし呉昌碩は仕官を目指さず、篆刻てんこく家を目指しました。

しかし、刻印だけでは生活できず、篆書で書いた対聯ついれん(2枚の紙をついに並べた作品)を売るなどしても、暮らしは楽にはなりませんでした。

中年を過ぎてから作画を始め、その金石味あふれる画風が人気を博すことになるのでした。

そして当時、書画の一大消費地だった上海に進出し、上海派の中心人物として活躍していきます。

呉昌碩の人生

呉昌碩の人生は、青年時代は戦乱に巻き込まれ、4,50代までは書画作品が思うように売れず苦しい生活を送りましたが、上海に進出して60歳以降は書画篆刻作品の売芸生活を安定させることができました。

呉昌碩の青年時代

呉昌碩の父・辛甲しんこうは金石篆刻をこよなく愛し、呉昌碩も幼少のころから父の影響で篆刻の世界に親しみました。

当時の呉家はかなり貧しく、刻印のための用具用材はとても粗末なものだったそうです。

そんなことは気にせず、「子は幼くして篆刻を好み、小さいころから老人になるまで印とは1日も離れなかった」(西泠印社記)という生活は少年期にはじまりました。

戦乱による試練

当時、清国は大規模な社会動乱、経済停滞、人口の爆発的増加による食糧不足などに苦しんでいました。さらにアヘンを代表とする列強帝国主義の侵略によって国の根底が揺さぶられていました。

激しい時代の波は、やがて呉昌碩が住む村にも押し寄せてきたのです。

彼が17歳のとき、太平天国の乱が彼が住む浙江省せっこうしょうに及んだため、家族と別れて湖北省こほくしょう安徽省あんきしょうを放浪することになります。

5年後、21歳の3月に帰郷し、父と再会しました。

村は死者4000人、生存者わずか25人だったといいます。

弟妹は餓死し、母萬氏ぼんしもすでに亡くなっていました。許婚いいなずけであった章氏しょうしも病死していました。

畑を耕して日々の飢えをしのぎながらも、学問に励む毎日であったといいます。

22歳のとき、県の学官であった潘芝畦はんしけいのすすめにより郷試を受け秀才の資格を得ます。

しかし仕官は望まず、主に杭州・蘇州で幕客ばくきゃく(官僚の私設秘書)や家庭教師をしながら、書画篆刻を売って生活しました。

没落していく社会の官吏や功名はあまり魅力を感じなかったということでしょうか。

呉昌碩が結婚してから

29歳のとき、浙江省帰安県菱湖の施氏ししと結婚しますが、新婚生活はますます芸術学問の方へ関心が強くなっていきます。

結婚後すぐに郷里を後にし、友人の金傑きんけつ杭州こうしゅう蘇州そしゅう上海しゃんはいをめぐり歩きます。

杭州では、兪樾ゆえつに文章と訓詰学を2年間学びました。蘇州では、楊峴ようけんに書と詩文を教わりました。

特に楊峴の人となりには強い影響を受けたようで、門下に名をつらねてくれるよう頼みました。

楊峴は師弟の関係ではなく義兄弟の契りを結ぼうと提案しますが、呉昌碩は楊峴を尊敬し、あくまで師弟の関係を求めたのでした。

上海では、任伯年じんはくねん胡公寿ここうじゅ蒲作英ほさくえい張子祥ちょうししょうら上海派の画家に出会います。中でも任伯年からは初めて画を学んでいます。

呉昌碩の中年期

呉昌碩が40歳ごろ、売画篆刻だけで一家を養っていたところから、友人のはからいで小役人となります。

また53歳のとき、安東県令(いまの江蘇省漣水県)となって下級役人になりますが、長官の機嫌をとることができなかったため、わずか1か月でやめてしまったそうです。

呉昌碩の晩年期~西泠印社の社長に就任~

60歳前後から死をむかえるまでの二十数年間は、蘇州、上海において書画篆刻作品を売る生活を送りました。

1904年、葚銘しょうめい王禔おうし丁仁ていじん呉隠ごいんの4人が発起人となって、杭州西湖畔に金石篆刻の学術団体、西泠印社せいれいいんしゃが創設されることになりました。

1913年70歳のとき、西泠印社は正式に発足し、上海書画壇の盟主的存在となっていた呉昌碩が初代社長に推薦されたのです。

すでに70歳になっており、耳も遠くなっていたので2,3人の知人以外は交遊を断っていたそうですが、西泠印社の活動には積極的に参加したといいます。

1927年11月29日、中風により上海北山西路吉慶里の自宅で亡くなりました。享年84歳。

呉昌碩の一生

呉昌碩が臨書し続けた石鼓文

呉昌碩にとって、石鼓文せっこぶんという古代文字は単なる書法習得のための素材であることを越えて、より大きな意味合いをもっています。

この1つの古典に何年も執着して、ついには独自の作風を確立し、清末屈指の能書家としての地位を不動のものにしたのです。

もし、石鼓文との出会いがなあったら、この人気作家の誕生はなかったかもしれないのです。

呉昌碩が石鼓文を習い始めたのは40歳ごろで、そこから亡くなる前まで学び続けました。

そのきっかけは、蘇州に移り住んだすぐあと、友人の潘瘦羊はんそうようから呉昌碩に、時の吏部侍郎・汪鳴鑾おうめいらんが北京の国子監で採拓したばかりの拓本を贈られたことにあるといいます。

実際には晩年まで習いつづけたものは、阮元げんげんが重刻した范氏天一閣はんしてんいつかく本や、これとは別系統のみん拓本だったそうです。

晩年にかけての書風の変化

呉昌碩による石鼓文の臨書作品は、40歳ごろから晩年にかけて膨大な量が伝存しています。

それらは揮毫の様式や文字の大小などによって作風がことなりますが、年代別によって文字の形態に変化が見られます

初期の作品ほど跡跡に近く、年を重ねるにつれて恣意的しいてきな要素が加わっていきます。

いわゆる呉昌碩風の石鼓文は、60歳前後にはすでに確立しています。

呉昌碩風の石鼓文の特徴としては、文字が縦長で、縦の筆勢が顕著であり、線質についても側筆を混用して、緩急太細の変化が加えられています。

原跡には見られない血脈がかよったような生き物ごとき字姿を作り出すことに成功したのです。

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