和様の書とは
「和様」について、『広辞苑』によると、
- 日本在来の風。日本風。日本流。
- 鎌倉時代の大仏様・禅宗様建築に対し、平安以来わが国に行われてい来た系統の建築様式。蓮華王院本堂・興福寺東金堂などに見られる。
- 書道で、御家流・定家流など、日本風の書体。
と説明しています。
また『日本国語大辞典』(小学館刊)では、更に詳しく説明されていて、とくに書道に関しては、
「書道で、法性寺流・青蓮院流・御家流の系列に生まれた日本的な書体。漢字の筆法をやわらげて書くもの。」
と説明しています。
和様の書を完成させた三跡(小野道風・藤原佐理・藤原行成)については下の記事で紹介しています↓
「和様」という言葉はいつから使われるようになったのか
漢字は中国から伝わって、やがて日本独自の書風になるわけですが、最初は日本でも中国風の文字が書かれていたということになります。
では、中国風と日本風の境界線はいつから引かれるようになったのでしょうか。また、この「和様」という言葉はいつから使われるようになったのでしょうか。
中国風と日本風に分けられるのは南北朝時代(14世紀)から
書風が中国風と日本風に分けられるのは南北朝時代(14世紀)からです。つまり鎌倉時代と室町時代の間くらいからです。
『異制庭訓往来』という書物があります。
この本は、1349年から1372年までの南北朝時代のころに作られたとされている教科書の一種で、正月から12月までの行事や風物についてかかわる手紙24通を紹介しています。つまり手紙文例集です。
この手紙文の中に、
「夫れ緒家の筆法、漢朝は達者にして、和国は俊才なり。恰も芝蘭、芳を逞しくし、錦綉彩りを耀かすごときなり。その意楽に依り、その法をまなぶべきなり。これを是非すべからず。然りといえども、少年稽古は、唐様は暫く閣かるべし。行成・定成両様の間、御習いあるべく候。…中略…若し筆功畢らば、唐様稽古有るべきなり。日本様は字義字訓において暗きの間、八決の法、三体の統、その精を得るもの少なきなり。…」
と書かれています。
手紙文の内容の意味としては、
「小生」の稽古には、とにかく唐様(中国風の書)は後回しにして、まず、行成・定成(日本風の書)から習いはじめるべきであると説いています。やがて、手習いが上達してきたら、はじめて唐様の稽古に取りかかるべきである、と指示しています。
ここで唐様という言葉がはじめて見えます。唐様とは中国風という意味で、ここでは中国風の書のことをいいます。
つづいて日本様という言葉がみえます。これは和様と同じ意味で、日本風の書のことです。
このことから、南北朝時代には、書道に関して唐様と日本様という2つの言葉が使われていたことがわかります。
また、この南北朝時代に書の名手として活躍した尊円法親王(1298~1356)が書いた『入木抄』においては、中国風の書を「唐朝之書」といい、日本風の書を「本朝の風」または「国風」という言葉で表しています。
「和様」という言葉が見られるのは江戸時代から
中国風と日本風に分けられていたのは南北朝時代からですが、日本風のことを「和様」という呼び方で表現するのは江戸時代の書物でみられます。
近衛家凞(1667~1736)の『槐記』という書物で確認できます。
『槐記』という書物は、近衛家凞の日々の発言や行動が収録されています。茶の湯の文化が盛んだったようで、茶会記が記録にとどめられているばかりでなく、茶法や書画・茶の湯道具の由緒来歴などが詳しく語られています。
この書物のなかに、
「筆道の御話の上にて、今の御家と称して世間に習い候は、みな尊円親王が本として尊澄・尊同(道)・尊珍(鎮)などを学び、其気に書申すを尊円様とも、御家ようとも申し候。唐様にあらず、日本やうになるべし。然らば、日本にては尊円を和様の祖と仰ぐ事に候やと窺ふ。…」
と書かれています。
このように近衛家凞が活躍していた江戸時代には、唐様に対する和様という言葉が使われていたことがわかります。