平安時代初期(9世紀ごろ)に活躍した「三筆」(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)は前の奈良時代の伝流をうけて中国風の書(王羲之の書法)を根底としました。
この三筆につづいて、その約100年後、平安時代中期(10世紀ごろ)から今回紹介する「三跡」の時代がやってきます。
三跡というのは、小野道風(894~966)・藤原佐理(944~998)・藤原行成(972~1027)の3人のことを指しています。
今回は、三跡の3人とはどんなひとだったのか、代表作品を紹介し、3人の書風の特徴を解説します。また、どうしてこの3人が三跡と呼ばれるようになったのかも解説していきます。
「三筆」についてはこちらで詳しく解説しています。
三跡(三蹟)とは/その代表作品を紹介
三跡というのは、平安時代後期に活躍した能書の3人、小野道風(894~966)・藤原佐理(944~998)・藤原行成(972~1027)を指しています。
能書とは、書に優れていた人のことをいいいます。
ちなみに三跡の「跡」は、「蹟」の書きかえ字のため、「三蹟」と書かれていることもあります。
では、3人それぞれについてと代表作品を紹介していきます。
小野道風についてと代表作品
小野道風は、かの遣隋使として有名な小野妹子の子孫です。
生存中からその時代もっとも優れた書家として尊敬された人であり、日本書道史上、空海と並び称されるほどの名声です。
とくに、道風の行書一巻と草書一巻の手本が中国(唐)に携行されました。
これは小野道風が日本の誇りとする第一の能書であったことを示しています。
小野道風の代表作品としては、「屏風土代」が挙げられます。
中国の書とは異なり、なめらかで、なだらかで、優美な書とされています。
藤原佐理についてと代表作品
藤原佐理は、摂関政治で有名な藤原氏一族の中でも名門の家系の人です。
能書としての活躍はめまぐるしいものがあり、若いころから数々の揮毫の記録がのこっており、その名声は遠く中国にも記録をのこしたほどです。
藤原佐理の代表作品としては、「詩懐紙」が挙げられます。
空海をはじめとした三筆の書きぶりを継承し、かつ小野道風のようななめらかさがあります。
藤原行成についてと代表作品
藤原行成は、父の藤原義孝があまりいい地位に恵まれなかったため、出世が難しい立場にいましたが、才能を発揮し、時の関白・藤原道長にかわいがられ、正二位権大納言にまでのぼりました。
三跡の中ではもっとも高い地位にのぼった人です。
行成の書風は後世も長い間手本として用いられていたので、平安時代の書はほとんど行成流を学び、行成の子孫は書の家として宮中に職の地位を占めていました。
この書の流派を世尊時流といいます。
藤原行成の代表作品としては、「白氏詩巻」が挙げられます。
中国の書の雰囲気を完全に消し去り、「The 日本の書」といったような優美な姿をしています。
三跡(三蹟)の書の特徴は「和様の書」
三跡の書は、一言でいうと「和様の書」です。
平安初期には、中国(唐)に遣唐使が派遣され、中国の文化が日本に影響を与えていました。
しかし、平安後期(897~1185)ごろになると、唐王朝は衰退し日本と唐との交流は途絶えてしまい、唐の書道も日本にはほとんど入ってこなくなりました。
907年には唐が滅亡したため、遣唐使は廃止となります。
唐が滅亡した後、五代十国(907-960)の時代をへて、「宋」の時代になります。
このころ日本では、平安初期に盛り上がった「唐様の書(中国風の書)」は影がうすれていき、平安末期には「和様の書」がもっとも盛り上がる時代となりました。
和様の書とは
和様には、漢字と仮名がありますが、とくに仮名が和様を象徴しています。
漢字はすこしの日本独自のものをのぞいてすべて中国からの借り物です。
仮名は漢字の草書をさらに簡略化し、うつくしく整理したものです。
仮名の起源は、平安貴族の宮廷生活のなかで女性の美しい情性によって洗練され、日本独自の書芸術が作りあげられました。
とても繊細巧妙な技法による細い線でつながった連綿の字形、ちらし書きの妙味、墨の濃淡による微妙な変化、それを書くのに用いる料紙の工芸品のような華美さなど、仮名のもつ特性は中国には見ることのできないものです。
中国の書と日本の書を比較するとき、日本のもっとも独特なものを選ぶとすればこの時代の仮名が挙げられるでしょう。
和様における漢字も、中国の書風そのままではなく、やわらかく丸みがあり、書体は必ず行草で書かれます。
日本の書芸術のすがたは、漢字は行書、仮名は草書とひらがなに見られるように、やわらかくて優美であることがその特徴といえるのです。
三跡(三蹟)と呼ばれるのはいつからなのか
小野道風・藤原佐理・藤原行成の3人が「三跡」と呼ばれるようになったのはいつからなのでしょうか。
「三跡」というキーワードが確認できるのは江戸時代からなのですが、三跡の3人が並べて評価されていた記録はさらに昔の平安時代後期の書物から確認できます。
そのため、
- 「三跡」という呼び方が確認される江戸時代の文献
- 「三跡」とは呼ばれていませんでしたが、3人がならべて評価されているもっとも古い文献
以上の2点に分けて紹介していきます。
「三跡」という呼び方は江戸時代から
「三跡」というキーワードが確認できるもっとも古い文献は、江戸時代の貝原益軒(1630~1714)によって編集された『和漢名数』(元禄2年〈1689〉刊行)です。
平安時代のころ、空海・菅原道真・小野道風の3人を「三聖」(『夜鶴庭訓抄』)と呼んだ記録はありますが、小野道風・藤原佐理・藤原行成をならべて「三跡」と名づけたのは、意外と新しく、江戸時代中期に下ってからのようです。
3人がならべて評価されるのは平安時代後期から
しかしながら、平安後期にはこの3人を並べて評価されていたことはわかっています。
その証拠に、当時屈指の能書と謳われた藤原教長(1109~1180)の『才葉抄(1177年)』という書物に、
「されば法性寺殿(藤原忠通)は、むかしの手書には、道風、佐理、行成、これ三人を能書と言う。この三人には三徳三失がある。道風は強く書いて少し俗道なり。強きは徳、俗道は失なり。佐理はやさしくてよはし。やさしきは徳、よはきは失なり。行成は打付に愛敬ありて、手の少し正念なきなり。愛敬は徳、少年無きは失なり。」
と書かれています。
これは藤原忠通のことばで、忠通による三人三様の書の「徳失」(長所と短所)が語られています。
小野道風の書に対しては、「強く書て少し俗道なり」(筆力は強いが、俗っぽい)といい、藤原佐理の書に対しては、「やさしくてよはし」(形が優雅であるが、筆力が弱い)といっています。藤原行成の書はというと、「打付に愛敬ありて、手の少し正念なきなり」(いきなり書いて魅力はあるが、手に乱れがあると言っています。
この評価があたっているかどうかは別として、当時からこの3人がならべて評価されていたことがわかります。