書道において、よく「南朝風の書」「北朝風の書」といった表現がされることがあります。
この「南朝」と「北朝」の違いとは何でしょうか。解説します。
南朝と北朝の書風
「南朝風の書」「北朝風の書」という表現は、中国大陸を南と北で分けたときに、南と北で書風が違うことをいいます。
南北朝時代の文化の発展の仕方に違いがあったため、文字の書風にも違いができました。
「南朝風の書」と「北朝風の書」の特徴ついてそれぞれ解説していきます。
南朝の法帖
東晋のあと、宋・斉・梁・陳と、漢民族が建てた短い王朝が約170年にわたって相ついで起こりました。これを南朝といいます。
どの国も建康、すなわち後の南京を都として、江南地方の華麗な文化を背景にして、文学・芸術など各方面に発展していました。
書道においても、東晋時代は貴族の間で書道が尊重されるとともに、蘭亭序で有名な王羲之が活躍した時代で、書体の変化、技巧の向上とともに、書跡の品評も盛んに行われ、作品の上からもまた理論の上からも成熟していきました。
そののち南朝の宋・斉・梁・陳の各王朝においても王羲之の書跡が尊重され、さかんに学ばれました。
南朝の書跡は、碑・墓誌は比較的少なく、王羲之・王献之(その息子)などの伝統を受けついで興起した関係から、紙に書かれた行草書の法帖が多く残っています。
これを「南帖」と呼び、「北碑」の対義語として考えることができます。
北朝の石刻
晋から隋に至るまでのあいだ、北の方では五胡十六国の粉乱が平定され北魏が建国されました。
北魏は西暦386年に建国、そののち149年をへて、534年になると東魏と西魏に分裂します。さらに東魏・西魏についで、北斉、北周となります。この北魏から東魏・西魏、北斉、北周にいたる5王朝196年間を北朝といいます。
北魏は、モンゴル系鮮卑族の拓跋珪が建てた国家で、文化の水準は低く、南朝の漢民族の文化レベルには及びませんでした。
しかし、そこから孝文帝(北魏の第6代皇帝)になり、都を山西の大同から河南の洛陽に移し(494)、漢化政策を採用して、風俗、言語、習慣すべてを漢人にならい、姓も元と改めてから、ようやく新しい文化が発展していきました。
北朝の書道は前半期はあまり発展しませんでしたが、孝文帝が都を洛陽に移した前後のころから諸文化の発展とともにようやく書跡が見られます。洛陽においては龍門石窟が造られ、そこに刻された造像記が有名です。
南朝の書は紙に書いた法帖が中心なのに対して、北朝の書は、碑・墓誌・摩崖・造像記といった石刻が中心です。これを総称して「北碑」と呼びます。
参考文献:『中田勇次郎書作集第二巻』