中国唐時代は、書道文化がとても発展した時代で、九成宮醴泉銘がつくられるなど、楷書が注目されました。
盛唐のころになると、楷書よりくだけた行書に優れた書人があらわれます。
そのなかでも特にすぐれた書人が、今回紹介する李邕です。
李邕の基本情報
李邕(678年〈儀鳳3年〉~747年〈天宝6年〉)は、中国唐時代の行書の名手として第一に挙げられる人物です。
太宗皇帝にはじまる王羲之書法の流行の波にのって、よく王羲之書法を根底としてその特異な風格をもってする行書を大成しました。
江夏(湖北咸寧、唐書に江都人とありますが、江夏が正しい)の人です。
あざなは泰和(新唐書本伝に泰和とありますが、李昻の墓誌に太和とあります)。
後漢の高陽侯以来、江夏の李氏とうたわれた名門の出で、『文選』の注釈者として名高い李善の子です。祖父は元哲といいました。
李邕の人生/経歴
李邕の生涯は、官吏(役人)生活を送ることになります。
前半は則天武后(623~708)、後半は玄宗皇帝(685~762)に仕え、各地を転々としました。
李邕の人生/経歴
- 701年(長安元年)24歳ごろ李嶠と張廷珪という2人が、
「李邕の文章は高尚で正義感にあふれ、その才能は君主を諫めるのに適任」
と朝廷に推薦します。そして左拾遺(皇帝のまちがいを忠告する官)に任命されました。 - 706年(神竜2年)29歳忠人の張柬之が則天武后、韋氏一族を排除しようと五王の乱を起こし失敗して殺されます。
李邕は張柬之と仲がよかったということでそのとばっちりを受け、富州司戸参軍(州内の戸籍、道路、土地台帳を司る下級官)へと左遷されてしまいます。 - 708年(神竜4年)31歳中宗の皇后韋氏はその娘と計り、中宗を毒殺してしまします。そして政治の実権をにぎり、前例の則天武后にならって女皇帝になろうとしました。
この毒殺の件を知った隆基(のちの玄宗)が大平公主(則天武后の娘で、玄宗の叔母)と計り、クーデターをおこし、韋氏の野望を砕き、韋氏の乱を静めました。
李邕は左台殿中侍御史(宮廷の儀式や長安城中の内部の補修などを司る次官クラス)に昇格します。 - 715年(開元3年)38歳官位は戸部朗中(大蔵省局長クラス)と高くなり、その後、玄宗皇帝お気に入りの張廷珪と姜皎の推薦により御史中丞(検事総長クラス)へと進みました。李邕の官吏生活で最高位となりました。しかし、時の宰相であった姚崇は李邕の気性の激しさを嫌って、適当に罪を作り、括州司馬に左遷してしまいます。のちに陳州刺史に昇格しました。
これより地方の役人生活がはじまっていきます。 - 720年(開元8年)43歳6月、雲麾将軍李思訓碑を建碑。
- 723年(開元11年)46歳2月に法華寺碑を建碑。10月に婆羅樹碑を建碑。
- 725年(開元13年)48歳
彼は六絶といって、文章・書翰・正直・辞・辨・義烈がみなほかの人より優れており、とくに文章にすぐれていました。寺院や高貴な人から碑文の作成を依頼され、これによって受け取った金額は数万を超えたといわれています。
性格は生まれつき豪放で細かいことに神経を使うことができず、彼のいるところには賄賂や謝礼がつきまとい、狩猟は思いのままであったといいます。社交性にも欠けており、そのため多くの人から悪口をいわれ、罪を受けるきっかけとなっています。
文章に優れましたが、その性格は激しく、官界においては上司に嫌われ役人としては恵まれませんでした。
書道家としての李邕
李邕は、碑文を800あまり書いたといわれています。しかし、そのすべてを自分自身が書いたわけではなく、大半は撰文に関わったものを指しています。
李邕は書くことよりも文章家として碑文のほうに価値と名声があったようで、文字のほうは本来は楷書か隷書で書かれるべきであったので、李邕はこれらの碑文を著名な書道家たちに書いてもらっています。
たとえば、李邕と親しかった張廷珪には彼の得意とする隷書で、同じく隷書の大家であった梁昇卿などに書くのを依頼しています。
李邕自身が碑文を書く場合には、もっとも得意とする行書で書きました。
当時、行書で碑文を書くのは異例であり、歴史的に見てそれまでは、太宗皇帝と則天武后の2人しかいませんでした。
李邕の書が認められ評価され始めるのは、300年以上も過ぎて、宋、元の時代へと移ってからのことです。
李邕の書の後世にあたえた影響
李邕が生きた唐時代は伝統的書風が尊重されましたが、その反発で、次の宋時代は個人の意(精神)を尊ぶ自由奔放、筆力剛健な革新書風へと発展します。
李邕の豪快でしかも骨気のある筆力、雄大な結構などが宋時代の書道家たちに歓迎されるようになりました。
こうして、まず欧陽脩は、
「李邕の書によって筆法を得た」
と書き、
また、黄庭堅は
「蘇軾の晩年の書はきわめて李邕の書に似ている」
と言い、
米芾は李邕の筆跡を収集しては刻帖に力を入れたといいます。
このことから、蘇軾、米芾らが李邕の筆法を学んだことがわかります。
また、さらに次の元時代の趙孟頫は、「大字を書くときに李邕の書法を習ってから書いた」といいます。大字を書くのに必要な骨力をつけるために李邕を学んでいたようです。
なぜ李邕の評価がおくれたのか
宋の三大家(蘇軾・黄庭堅・米芾)たちによって李邕の書が評価されるようになりましたが、李邕が亡くなってから約350年が経過しています。
この間の主流は王羲之を師とする伝統派でした。
どうして350年の間、李邕は評価されなかったのでしょうか。
それには4つの理由が挙げられます。
まず1つ目に、李邕は楷書があまり得意でなかったことが挙げられます。唐の四大家(虞世南・欧陽詢・褚遂良・顔真卿)は楷書に優れた書道家でした。この時代は科挙という国家試験において美しい楷書が書けるかどうかもみられていました。李邕はその楷書に代表作を残していないので忘れられてしまったのではないでしょうか。
2つ目に、書道家としてより文章家として有名だったことが挙げられます。これは李邕の経歴からわかります。
3つ目に、李邕は人格に乏しかったことが挙げられます。例えば、米芾が「李邕はにわか成金のように言動が粗野で無礼だ」と評価しているように、碑文を頼まれては多額の謝礼をもらい、賄賂は使い、性格は傲慢で気性が強かったそうです。また、李邕は犯罪者として死刑になっています。それらが人格者を尊ぶという儒教思想のなかで、その秩序をやぶる言動・行動が、李邕の評価を敬遠させたのではないでしょうか。
4つ目に、伝統と習慣の無視があげられます。書道の世界では神のような存在の王羲之書法から脱皮し伝統に背を向けたり、碑文を楷書か隷書で書くべきところを行書で書いています。これら自由奔放な生活や行動がこの時代に受け入れられず、秩序を乱す異端者扱いされていたと考えられます。
王世貞によると、「李邕は書はうまいがすこし一人勝手なところがある。文章はしなやかさをもって名声を得ているが、その高すぎた名声によって死を得て、立派な書をもってそしりを得た」と書いていますが、まさにその通りだったしょう。
李邕の代表作品
李邕の碑版のなかで代表的なものとしては、まず第一に「李思訓碑」が挙げられます。そのほか「麓山寺碑」「法華寺碑」などがあります。
李思訓碑については、下の記事をご覧ください。↓
李邕の書風
王羲之書法を学びながらも、筆勢の雄健さにすぐれ、頓挫起伏するすがたは、よく人の心を動かすに足るものがありました。
南唐の李後主が、李邕の書を評して、右軍(王羲之)の気を得て体格に失す、といっているように一種の欹側した体勢に難点がありますが、その気象はよくその弊を掩うてあまりあるものと言うことができます。
李邕は行草を得意としたので、楷書の作例はごくわずかしかありません。
書風は太宗(唐王朝の第二代皇帝)の影響をうけましたが、本来、王羲之からでたもので、さらに古い伝統の書法を脱して筆力を一新し、骨気の鋭い書風を作りだしました。
彼の行草碑としては李思訓碑のほかに、法華寺碑(723)、麓山寺碑(730)、李秀残碑(742)、大照禅師碑などが著名です。
楷書では端州石室記が知られ、そのほか、淳化閣帖や明清の集帖にも載っていますが、その真相はわかりません。
やはり、李思訓碑が彼の代表作であり、この碑があるからこそ、彼を唐時代における行書の第一人とされているのです。
李邕の行書から、さらにくだけた草書へ
中国唐時代は、太宗皇帝の影響により書道文化がとても盛んになる時代です。欧陽詢・虞世南・褚遂良があいついで現れ、楷書の上にその技巧をきわめた美しい世界を出現させました。
そこからさらに年月が進み、盛唐のころになると、楷書より砕けた行書にすぐれた書人があらわれます。それが李邕です。
つぎに盛唐から安禄山の戦乱を経て、中唐になると伝統的書法のしきたりを打破する傾向がいっそうたかまり、さらにくだけた草書が流行します。
しかもそれは従来の草書ではなく、酒に酔った心境から生まれでた狂草です。
それを代表するのが張旭と懐素です。
これらの新しい書風の書道家たちの影響もあって、やがて北宋の名家(米芾・蘇軾・黄庭堅)を生みだし、創作的な新しい書道芸術へと発展していくのです。
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参考文献:二玄社『中国書法ガイド39』、『書の文化史 中』西林昭一、『中田勇次郎著作集 第三巻』『書道芸術第5巻』