中国唐時代の書道家柳公権は、「唐の四大家」の1人、顔真卿の第1の後継者として有名です。
顔真卿は、どくとくな書風の楷書で有名ですが、柳公権はその書風を受け継ぎました。
今回は、そんな顔真卿の弟子柳公権の代表作品である「玄秘塔碑」について紹介します。
柳公権について
柳公権(778年〈大暦13年〉~865年〈咸通6年〉)は、京兆華原県(陝西)の人です。
字は誠懸。
河東の名族柳氏の出で、父の子温は丹州刺史、兄の公綽は御史大夫、山南東道節度使、兵部尚書などを歴任した大官で、柳公権はこうした家庭環境のなかで育ちました。
幼少より学問を好み、『新唐書』は12歳にしてすでに辞賦に巧みであったといい、経学に明るく、とりわけ春秋左氏に精通していました。
806年(元和初年)、科挙(官僚登用試験)に合格して進士に及第し、秘書省校書郎となり、その後、兄公綽の斡旋により右司郎中、弘文館学士となりましたが、ほとんど侍書学士として穆宗・敬宗・文宗・宣宗の緒帝に仕え、とくに文宗の信任を得て、中書舎人、翰林侍書学士に任命されました。838年(開成3年)工部侍郎に転じ、学士承旨にうつります。
やがて武宗がたつと右散騎常侍となり、さらに集賢院学士知院事となりますが、李徳裕に嫌われて
太子詹事(皇太子付きの閑職)に左遷され、賓客に改められました。
李徳裕は国粋主義・理想主義を標榜する門閥派の領袖で、一方の現実主義的な牛僧孺派と対立していたのですが、柳公権は後者に属していたため地位を下げられてしまったのです。
しかし、地方へ追いやられることもなく、40年以上も中央政府におり、その間、文芸と書をもって緒帝に奉仕するにふさわしい官職を与えられました。
宣宗の大中年間、河東郡開国公に封ぜられ、国子祭酒に復し、工部尚書をへて、太子少傅より同少師に進みましたが、やがて太子太保をもって官職を引退し、865年(咸通6年)88歳で亡くなり、太子太師を贈られました。
書道家としての柳公権
柳公権は、よく「顔柳二家」と並称されるように、顔真卿の第1の後継者として有名です。
顔真卿は安禄山の乱によって突如として歴史の上に登場し、李希烈の乱において悲劇の主人公として凜烈な生涯を終えたのに対し、
柳公権の方は官僚としても平穏な道を歩み、その間に書家として大成し、盛名一時に高くなりました。
彼が研究した近代の筆法とは、やはり顔真卿の書法が中心になっていたでしょう。
柳公権は行書、草書も巧みであったといいますが、やはり楷書の名手ということができます。
楷書の作品例としては、
- 金剛経(長慶4年・47歳)
- 李晟碑(太和3年・52歳)
- 馮宿碑(開成2年・60歳)
- 符璘碑(開成3年・61歳)
- 玄秘塔碑(会昌元年・64歳)
- 神策軍紀聖徳碑(会昌3年・66歳)
- 劉沔碑(大中2年・71歳)
- 高元裕碑(大中7年・76歳)
- 魏公先廟󠄀碑(大中10年・79歳)
などが挙げられます。
柳公権の碑刻は、顔真卿の碑と同じようにその数の多く、これらのなかでも彼の代表作品として古来謳われるのが今回紹介する玄秘塔碑です。
玄秘塔碑について
玄秘塔碑は、大達法師・端甫の業績と、その遺骨が納められた塔である玄秘塔の由来を記した碑です。
碑石は現在も陝西省博物館(西安碑林)に保管されています。
篆額12字「唐故左街僧録大達法師碑銘」が3行4字で書かれ、碑身は28行、毎行54字に区画されています。
額、本文ともに柳公権の書です。このとき柳公権は64歳です。
文章を考えた撰者は裴休です。
碑の主人公端甫(たんほ)について
碑の主人公である端甫(770~836)は、陝西省天水の人です。俗姓は趙氏。
長安の安国寺の僧侶で、797年(貞元13年)徳宗皇帝に召されて信任を得て、常に宮廷に出入りして皇太子(のちの順宗)に親侍し、のち憲宗の知遇を得て、806年(元和元年)には左街僧録(寺院の総取締役)・内供奉となりました。
その後、内外の尊崇を受け、多くの優れた門弟にめぐまれながら、文宗の836年(開成元年)6月1日、67歳で亡くなりました。
それから5年後の841年(会昌元年)にいたりこの玄秘塔碑が建てられました。
碑の文章を考えた裴休(はいきゅう)について
文章を作った撰者の裴休は、河南済源の人で、字は公美。
進士に及第して官途に就き、宣宗の852年(大中6年)から宰相の位に就き、財政方面で活躍しました。熱心な仏教信者で、僧侶との交友も広く、彼自身も仏典を深く研究し、教理にも精通していました。
文章に長け、柳公権の影響を受けて書も得意だったようです。
彼の代表作品である圭峰褝師碑には柳公権が篆額を書いており、この玄秘塔碑とともに2人の親密な関係をうかがい知ることができます。
玄秘塔碑の特徴
玄秘塔碑を書いた柳公権は、顔真卿の弟子なので、顔真卿の書風に似ています。
よく「顔筋柳骨」という言葉があるように、柳公権の書は顔真卿に比べると線が細く、骨ばっています。
字形も顔真卿のように方形ではなく、やや縦長です。
そして字形と筆遣いをよく整理し、洗練された結果、顔真卿よりもみるからに骨ばり、縦長の字形の美しさだけが目立つようになりました。