中国の書家

【清代の書道家】楊峴(ようけん)について解説/作品とその特徴

中国の書家

しん時代初期、学書の対象とされはじめた漢碑かんぴの隷書は、清時代後期においても多くの人々によって学ばれ続けました。

漢碑のみを専門として、独自の様式を作り上げ、隷書の大家として後世に名をとどめるほどの人物となると、数は限られます。
楊峴ようけんははそのなかの最たる存在といってよいでしょう。

今回は、楊峴ようけんについて、人生、作品の特徴を紹介します。

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楊峴(ようけん)について解説

楊峴ようけん(1819~1898)は、中国しん時代の後期に活躍した書道家です。

1819年(嘉慶24年)4月22日、浙江せっこう湖州こしゅう帰安きあん県(現在の湖州市)に生まれました。

名前のは湖州にある山「山」(言明は顕山)に因むものとされています。
あざな見山けんざん雅号がごう庸斎ようさい遅鴻残叟󠄀ちこうざんそう藐翁󠄁びょうおうなどといいます。

楊峴の人生

楊峴の人生については、自身が書いた『年譜ねんぷ』があるので、それをもとに紹介します。

彼には後継あとつぎがいなかったので、自らの生涯を年譜ねんぷつづったのでした。
「余は今年六十有九。子無く孫無し。深く恐る、風燭え易く、能く余の行事を挙ぐる者無きを。因りて自ら年譜を輯󠄁し、以て将来に示さん。光緒丁亥閏四月、醋庫巷さくここうの寓斎において記す」(『年譜』序)。

少年時代

楊峴は、7歳から私塾に通って読書をはじめ、9歳で「経書を黙写するに字画端整、師之を賞す」(楊峴自編『藐叟󠄀びょうそう年譜』)、
10歳で「師、満朝朱紫を以て対するを命ず。余、声に応じて曰く、萬卷丹黄と。師 益す之を賞す」(同上)という聡明な少年でした

ただし、科挙かきょ(官僚登用試験)では失敗を繰り返し、1855年(咸豊5年)37歳の年にようやく杭州での郷試に合格、挙人の資格を得ています。

太平天国の乱では家が焼かれる

1862年(同治元年)4度目の会試受験に失敗して北京を離れて上海にいた彼は、突然の悲報をうけます。

江南の各地を侵略していた太平天国軍たいへいてんごくぐんが、ついに故郷の帰安をおとしいれ、一族が難に遭遇、帰安東門内の白牆巷はくしょうこうにあった家屋は焼き払われ、蔵書や自著の稿本も焼けて灰になってしまった、という知らせでした。

「八月、上海にいたり、叔兄の書を得て始めて知る。城(帰安)破らるる時、先に寡嫂・寡姉は殉節し。鴻煕はとりことされ、静煕・能煕は投水するも水浅くして死ぬを得ず、頭を泥中に倒栽するを以て死す。僅かに存ずるは弱妻と次女、南潯の難民局に延息す。潯も亦賊地なり。敢えて往󠄁かず云々」(『年譜』鴻煕は次男、静煕は長女、能煕は三男)

2人の子どもを失い、さらに鴻煕こうき(時に16歳)が太平天国軍にさらわれて行方知れずになってしまったことは彼を悲痛にさせました。

もともと彼には恒煕こうきという長男がいました。
しかし、恒煕は生まれて間もなく病死したため、その2年後に生まれた鴻煕こうきに楊家の後継ぎとしての期待がかけられていたのです。

これ以降、彼は遅鴻軒なる一室を築き、遅鴻軒主の別号を使い始めました。
「遅鴻」とは、行方知れずの鴻煕を待ち続けるという意味です。(「遅」には「待つ」の意味があります)

役人としての楊峴【上官を恐れない性格】

一時、1862年(同治1年)には曾国藩そうこくはん、3年後の1865年(同治4年)には李翰章りかんしょう(李鴻章の兄)の幕客ばくきゃく(私設秘書)となって軍務をたすけることもありました。

そして、50代から60代にかけては、主に塩や食糧を運ぶ転漕てんそうの官に従事、
1877年(光緒3年)にはその功が認められて、江蘇省常州じょうしゅうの知府となり、1883年(光緒9年)には江蘇省松江まつえの知府となりました。

しかし、常州知府は7か月、松江知府も数か月で退任しています。
これは妥協を許さない性格のため上官にも遠慮することなく行動したことによります。事実、上官を軽んじたため弾劾に処せられ、官を3級けずられています。松江知府はその2か月後に辞職しました。

彼が好んで使った晩年の雅号の1つ藐翁󠄁びょうおう「藐」は軽んじさげすむの意味)は、この弾劾事件にちなんだものであるといいます。
「此より戸を閉して書を読み、脚鞾きゃくか手版に復らざるなり」(『年譜』)

晩年は読書、作品の揮毫、交友の日々を送る

楊峴の晩年は、蘇州そしゅうにあり、読書と作品の揮毫きごうと交友の日々を送りました。

持病の肝風かんぷうの悪化により78年の生涯を閉じたのは、1896年(光緒22年)7月10日のことです。

弟子の1人、無錫の劉継増が編んだ『藐叟󠄀年譜続』には、彼の晩年の様子を伝える以下のような記事がみられます。
「先生、官に在りては財産を問わず。既にして呉門に帰し、宦橐かんたく蕭然、文字に託して以て自給せり。喜んで漢の分隷を作し、遠近の求める者、争いて餽遺(贈り物)を致す。丈󠄁縑尺素、揮応してまず。是にりて起居は裕如たり。戚族また仰ぐに周急を以てする者有り。然れどもいやしくも其の人に非ざれば、金を兼ぬとも雖も、一字も得ること能わず。けだ狷介けんかいの性、老に至るもも以て易わること無き也」。

かの呉昌碩ごしょうせき(1844~1927)が楊峴の人となりを慕い、師友関係だったことはよく知られています。
呉昌碩がはじめて楊峴にあったのは1872年(同治11年)のことで、両者の交流は楊峴が亡くなるまでの25年近くに及びました。呉昌碩が刻した数多くの楊峴の自由印などは、両者の間の親しい結びつきを物語るものです。

楊峴の作品・特徴

楊峴ようけんは、隷書れいしょを得意としたことで有名です。

自編の『年譜』には、1851年(咸豊元年)のころに
「分書(隷書)を習うは此より始む」
という一語があります。
彼は33歳のころから隷書を習い始めたようです。

楊峴はあらゆる漢碑かんぴを習ったといい、事実、
礼器碑・乙瑛碑・曹全碑・史󠄁晨碑・西嶽華山廟碑・張遷碑・西狭碑・祀三公山碑・開通褒斜道刻石・衡方碑・封龍山頌󠄁など、多種にわたる漢碑の臨書作品が伝存しています。
このなかで、彼の書法にもっとも影響したのは礼器碑れいきひです。

霓裳逸史四屛げいしょういつししへいにみるように、筆鋒の抑揚を駆使し、点画の強弱を強調した躍動感のある切れ味のいい書風で一家をなしました。

一方で、楊守敬ようしゅけいは「巧い書だが、晩年は頽唐たいとう(くずれる)に流れた」といい、馬宗霍ばそうかくは「逸調を出そうとして、かえって古意がうすい」と評価しています。
頽唐たいとう」といわれ、古意に乏しい点では、呉熙載ごきさい以後の書道家にその気配はありますが、楊峴にはとくにそれが臭うといわれています。

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参考文献:『中国近代の書人たち』中村伸夫、『書の文化史 下』西林昭一

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