唐の第2代皇帝太宗(李世民、598〜649)は、書道を「国家事業」に引き上げた唯一の皇帝です。国立の書道学校を設立し、官僚試験に美しい字を必須条件として組み込み、王羲之の書を2290枚も収集しました。
太宗がいなければ、初唐の三大家(虞世南・欧陽詢・褚遂良)が活躍する舞台は生まれず、書道の歴史はまったく違うものになっていたでしょう。この記事では、太宗が書道史にどんな足跡を残したのか、代表作の晋祠銘・温泉銘とあわせて紹介します。


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太宗(李世民)とは——300年の唐王朝を築いた皇帝
太宗(たいそう)は、中国・唐王朝の第2代皇帝であり、300年続く唐の礎を築いた歴代屈指の名君です。諱(生前の名前)は世民。初代皇帝李淵(高祖)の次男として生まれました。

隋末の動乱のさなか、若き李世民は父・李淵を説得して挙兵し、都長安を攻略。天下統一を果たしました。しかし即位への道は平坦ではありません。626年、玄武門の変で皇太子の兄・李建成と弟・李元吉を討ち、父から譲位を受けて皇帝の座に就いたのです。
血なまぐさい即位の経緯とは裏腹に、太宗の治世は驚くほど安定していました。隋の制度を見なおして律令を体系化し、税制を改革して財政を豊かにし、兵農一致の軍制で急速に平和な時代をもたらします。高句麗など国外への遠征にも勝利をおさめ、「貞観の治」と称えられる中国史上もっとも安定した時代を出現させました。
そして太宗は、軍事・政治の天才であると同時に、書道を心の底から愛した文化人でもありました。ここからが、書道史における太宗の本領です。
太宗はなぜ書道に力を入れたのか——4つの文教政策
太宗が書道を重視した理由は明確です。南北朝時代にバラバラだった文化を統一し、国家の基盤を固めるために、「美しい字を書くこと」を国の制度に組み込んだのです。
もともと北朝(北魏系)の出身でありながら、学問・芸術の分野では南朝(王羲之系)のものを積極的に採用しました。この「南北文化の統一」という壮大な政策のなかに、書道は大きく位置づけられています。
弘文館——国立の書道学校をつくった皇帝
古来、中国では宮中に学館を設立して、天下の優秀な学者を招き、皇帝の学問や政治にわたる顧問とする制度がありました。今でいう図書館と大学の機能をあわせ持った国立研究機関です。
626年に太宗が即位すると、既存の修文館を弘文館に改称。在京の五品以上の文武官の子で、習字の好きな者や素質がある者を選抜し、書道を学ばせました。はじめに選ばれたのは24人。内府に所蔵する法書を手本とし、実物の名跡で学ぶという贅沢な環境が整えられたのです。
指導を任されたのは、当時随一の書道家である虞世南(558〜638)と欧陽詢(557〜641)。両者は学生に楷書を教授しました。とりわけ虞世南は、太宗が絶大な信頼を置き、政務とその余暇においても良き相談役として常にそばにいた人物です。
さらに弘文館には、写経を担当する楷書手や、古跡法書の摸本制作を行う搨書手が置かれました。貞観年間中に設置された太子の学館である崇文館にも搨書手や書手が配置されています。現代でいえば、国家が予算をかけて書道のプロフェッショナルを育成し、名跡のレプリカを量産する仕組みをつくったようなものです。
のちに弘文館は入学者に定員が設けられ、皇族・外戚・高官の子弟を対象とした教育が行われるようになりました。書は重要な科目として位置づけられていたことがうかがえます。
科挙に「美しい楷書」を必須条件として組み込む
国子監において試験を受けて官僚となる道も開けていましたが、科挙(官僚登用試験)を受けて官僚になるほうが早かったため人気がありました。唐では6つの学科(秀才・明経・進士・明法・明書・明算)が課され、うち明書科は文字や訓詁を専門とする人材を選抜する科目でした。
注目すべきは、官僚の任命・異動に際して「身言書判」の4条件が基準とされたことです。
- 身——体格・態度が立派なこと
- 言——言語応答が明瞭なこと
- 書——楷書が正しく美しく書けること
- 判——判決文作成の能力があること
つまり「字がうまいこと」は、唐王朝の官僚にふさわしい人格の証として、体格や弁舌と同列に扱われていたのです。現代の就職面接で「字がきれいかどうか」が合否を左右するようなものだと思うと、太宗がどれほど書道を重視していたかがわかります。
国子監——最高学府で書道を教えた
627年、太宗は都・長安に置かれた最高教育機関を国子監と改称しました。現代の中央国立大学に相当します。国子監には6つの学部(国子学・太学・四門学・律学・書学・算学)があり、書学には教授にあたる書学博士が置かれました。
書学で必修とされた教科書は『石経』『説文』『字林』。文字の成り立ちから正しい書き方まで、体系的に学ぶカリキュラムが組まれていました。
儒教の統一と楷書の標準化
太宗は思想面でも統一を進めました。南北朝時代に南北で解釈がわかれていた儒教の経典を1つに定めるため、孔子の子孫である孔頴達に命じて『五経正義』を編纂させ、国定教科書としたのです。
この作業に携わった顔師古(581〜645)は、校定の過程で諸種の字体を集めて『顔氏字様』を編纂し、楷書の字体を整理しました。のちにその第4世の孫・顔元孫が正体・通体・俗体の3種類に分類した『干禄字書』を整え、その甥の顔真卿(709〜785)が石碑として書丹しました。
こうして異体字が乱立していた楷書は正体に統一されていき、唐代の楷書黄金時代が幕を開けるのです。
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太宗の王羲之崇拝——2290枚の書を集めた執念
太宗の王羲之への崇拝は「愛好」の域をはるかに超えていました。国家の財力を使って全国から書跡を買い集め、鑑定・分類・複製の体制まで整えた——それは一人の皇帝による、史上最大規模の書道コレクションです。
貞観13年(639年)、太宗は勅命を出して王羲之の書跡を高価で購求させました。全国あちこちに散らばっていた名跡が内府に集められ、当時起居郎であった褚遂良と校書郎の王知敬らに命じて一枚一枚を鑑別・校定させ、梁の方式にならって典儀の王行真に表装させました。
整理された書跡はおよそ2290紙、13帙128巻。内訳は以下のとおりです。
- 楷書:50紙、1帙8巻
- 行書:240紙、4帙40巻(長さ4尺)
- 草書:2000紙、8帙80巻(長さ1丈2尺)
いずれも金縷雑宝装の軸、織成の帙を用い、紙絹の継ぎ目には「貞観」2字の印が捺されました。なお、王羲之の子・王献之の書跡は購求せず、内府にはわずかしかなかったといいます。太宗の「王羲之一筋」の姿勢がここにも表れています。
褚遂良が王羲之書跡を鑑定した際の手記である『晋右軍王羲之書目』には、楷書と行書の目録がのこされており、当時の王羲之書跡の収集・鑑定の一端を知ることができます。
太宗は自ら『晋書』の「王羲之伝賛」を執筆しています。皇帝が一書家の伝記を自筆する——それほどの情熱があったからこそ、王羲之は「書聖」としての地位を不動のものにしたのです。
蘭亭序を奪い、墓に持っていった皇帝
王羲之の数ある書跡のなかで、太宗がとりわけ酷愛したのが「蘭亭序」です。
何延之が著した『蘭亭記』には、太宗と蘭亭序をめぐるドラマチックな逸話がのこされています。蘭亭序の原本は王羲之の子孫から僧侶・弁才の手に渡っていましたが、太宗は策略を用いてこれを入手しました。そして太宗自身が亡くなった際には、蘭亭序の原本とともに埋葬するよう遺言したのです。
この逸話が意味するのは、蘭亭序の「真跡」は太宗の墓(昭陵)とともに永遠に失われたということ。現存する蘭亭序はすべて複製です。太宗は虞世南・欧陽詢・褚遂良らに蘭亭序を臨摸させ、あるいは趙模・韓道政・馮承素・諸葛貞・湯普徽ら搨書手に命じて摸本を制作させ、皇太子や諸王、近臣に与えました。
書道を学ぶ私たちが今も蘭亭序の美しさに触れることができるのは、太宗が複製をつくらせたおかげです。原本への執着と複製の推進——この矛盾した行動こそが、太宗の書への愛情の深さを物語っています。
「骨力神彩」——太宗が追い求めた書の本質
太宗は名跡の臨書に励みましたが、その姿勢は見た目を写し取ることではありませんでした。太宗はこう語っています。
「古人の書を臨する際、形勢(字の形)はまねない。ただ原跡の骨力(表現を支える内面的な力)を追求するだけだ。骨力が会得できれば、形勢は自然とついてくる」
——『唐朝叙書録』
「学書のむずかしさは神彩(内面的な輝き)を得ることにある。形を学ぶのは二の次だ」
——『太宗筆意』
骨力神彩とは、書の本質は外面の形ではなく、線に宿る内面的な力と輝きにある、という考え方です。形だけ整っていても「骨」がなければ弱々しい。逆に骨力があれば、形は自然と美しくなる——この哲学は、1400年後の現代でもそのまま通用します。
教室で生徒さんに臨書の指導をしていると、形を追うことに一生懸命になるあまり、線そのものの力強さが失われてしまうことがよくあります。そんなとき、太宗のこの言葉を思い出します。形より先に、一本の線に込める力。太宗が1400年前に言ったことは、今の書道教室でもまったく同じ課題なのです。臨書に適した筆の選び方は「おすすめの書道筆ランキング」で詳しく紹介しています。
太宗の代表作品
太宗は2つの碑で書道史に名を刻んでいます。碑石に行書を用いた最初の人であり、飛白体の最古の作例をのこした人物でもあります。
晋祠銘(しんしめい)——碑石に行書を刻んだ最初の人
晋祠銘 貞観20年(646年)
山西省太原市の西南約25kmにある晋祠(西周の唐叔虞の祠廟)に現存する碑です。碑身は194×121.5cm、文は28行、1行50字。
隋末の動乱で太宗が父に勧めて兵を挙げたとき、この晋祠に武運を祈願しました。それから30年後の貞観19年12月、高句麗遠征から帰る途中に再び参拝し、神霊への感謝文を自ら作り、自ら書いて碑に刻ませたもの——つまり、文章も書もすべて太宗本人の手によるものです。
碑文は磨滅と補刻を重ねて原蹟本来の趣は失われていますが、題額の飛白書は今もよくのこっています。碑石に行書を用いた最初の例であり、飛白体の最古の作例でもあるこの碑は、書道史上きわめて重要な存在です。
温泉銘(おんせんめい)——敦煌から発見された奇跡の拓本
温泉銘 貞観22年(648年)
陝西省臨潼県の驪山温泉を賛美した碑です。晩年、健康を害した太宗は毎年冬になると温泉療養に通い、そこの温泉を讃える文を自ら作り、自書して碑に刻しました。
原碑は宋代以降の記録には出てこないため、早い段階で失われたと考えられています。しかし1908年、フランスのポール・ペリオ博士が敦煌石窟から搬出した古文書のなかに、この温泉銘の拓本が含まれていました。前半は欠失していますが、後半49行分が剪装巻子本としてのこされていたのです。
巻末に「永徽4年(653年)8月30日」の墨書記名があることから、碑が建てられてわずか5年後の拓本であることが証明されます。遺例の少ない唐拓のなかでも極めて貴重な一品で、現在はパリ国立図書館に収蔵されています。
温泉銘の書風からは、太宗の書法の根底に王羲之の書法があることが読み取れます。流麗でありながら芯の通った線——まさに太宗が追い求めた「骨力神彩」が体現された作品です。
太宗と初唐の三大家——書道黄金時代の立役者たち
太宗のもとで才能を開花させた3人の書家が、「初唐の三大家」と称される虞世南・欧陽詢・褚遂良です。
- 虞世南(558〜638)——太宗の最も信頼した書道の師。弘文館で楷書を教授し、代表作「孔子廟堂碑」をのこす
- 欧陽詢(557〜641)——楷書の完成者。「九成宮醴泉銘」は楷書の最高峰として知られる
- 褚遂良(596〜658)——王羲之書跡の鑑定者。代表作「雁塔聖教序」は優美な楷書の典型
太宗が書道を国家事業として推進したからこそ、この3人は存分に腕をふるう舞台を得ました。彼らの代表作は、太宗の治世という土壌のうえに花開いたものです。太宗と三大家の活躍により、唐時代は王羲之の東晋時代に引けを取らない、書道の黄金時代となりました。
よくある質問
太宗(李世民)はなぜ書道に力を入れたのですか?
南北朝時代にバラバラだった文化を統一するためです。太宗は北朝出身でしたが、学問・芸術では南朝(王羲之系)を採用し、書道を国家制度に組み込むことで南北文化の統一を図りました。弘文館の設立、科挙での書道重視、楷書の字体標準化など、書を政策のツールとして活用したのです。
蘭亭序の原本はどこにあるのですか?
太宗の墓(昭陵)に副葬されたとされ、原本は現存しません。太宗は生前に虞世南・欧陽詢・褚遂良に臨摸させ、馮承素ら搨書手に摸本を制作させました。現存する蘭亭序はすべてこれらの複製です。詳しくは「蘭亭序について詳しく解説」をご覧ください。
太宗の書の特徴は?晋祠銘と温泉銘の違いは?
太宗の書は王羲之の流れを汲む、流麗でありながら芯の通った書風です。晋祠銘(646年)は碑石に行書を用いた最初の例で、飛白体の題額も特徴的。温泉銘(648年)は太宗晩年の作で、王羲之の影響がより濃く表れた行書です。両作とも文章・書ともに太宗本人によるもので、皇帝自らが碑を書いた稀有な例です。
まとめ——書道の「国家プロジェクト化」が生んだ黄金時代
太宗の功績は、単に書道がうまかったことではありません。書道を国家の制度・教育・文化政策に深く組み込み、それを支える人材(三大家)を育て、最高の手本(王羲之の書跡コレクション)を整備した——この「仕組みづくり」こそが、唐の書道黄金時代を生んだ本質です。
太宗が追い求めた「骨力神彩」の精神は、1400年を経た今も書道の核心にあります。形だけでなく、線に宿る力と輝きを追い求めること。その原点に立ち返るとき、太宗の情熱が時代を超えて伝わってきます。SHODO FAMのオンライン書道教室でも、太宗が愛した古典の臨書を通じて、書の本質に触れる体験ができます。
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