世尊寺流(せそんじりゅう)とは
世尊寺流とは、平安時代に活躍した藤原行成を祖とする和様書道の流派の1つです。後世の数多くの書流の源流に位置しています。
藤原行成が建立した世尊寺という寺院と、その行成の子孫が世尊寺家を名乗り、代々そこを住居としたことから世尊寺流と呼ばれるようになりました。
もっとも、「世尊寺」と呼ぶようになったのは第8代目行能(1179~1255)からで、それまでは藤原だったようです。
行成の後、多くの能書家を輩出し、1世紀半にわたって最も権威ある書法として宮廷や貴族などに用いられました。
初代藤原行成から17代を数えますが、1532年(享禄5年)17代目世尊寺行季が亡くなったことで世尊寺家は断絶し、それにより世尊寺流は断絶しました。
世尊寺家は鎌倉時代になっても、綿々と宮廷の書き役の座を堅持し、室町時代中期の17代目行季(1476~1532)まで続き、やがて持明院流に継承されていきます。
世尊寺家歴代当主
- 藤原行成(972年 – 1027年)
- 藤原行経(1012年 – 1050年)
2代目行経は、歳若くして亡くなったせいもありますが、これといった遺品が残されていません。 - 藤原伊房(1030年 – 1096年)
3代目伊房は、祖父行成とは違い厳しい性格だったようで、いろいろと問題行動を起こしています。
まず、藤原通俊の『後拾遺和歌集』の奏覧本の清書を依頼されますが、自分の歌が1首しか採用されていなかったので、自分の気に入った歌を独断で2首加えたという勅撰集改ざん事件。通俊は再清書を依頼しましたが、伊房はこれを拒否します。それから、契丹国と密輸して私腹を肥やすという大胆な行動にでて、位を落とされ、停職の罰を受けます。
このような伊房ですが、書も豪気な性格がにじみ出ているのか、剛健で歯切れのよい豪快な書風です。伊房の書いた古筆には、藍紙本万葉集、十五番歌合などがあります。 - 藤原定実(1063年 – 1131年)
定実は、多くの古筆の書き手として知られています。書風はやや側筆ながらきわめて軽快で明るく繊細流麗な書風です。散らし書きに特に優れ巧妙で変化に富んだ世界を展開しています。
定実書と確定しているものは、元永本古今集、巻子本古今集序、筋切・通切、本願寺本三十六人歌集(貫之集上・人麿集)など多岐にわたっています。 - 藤原定信(1088年 – 1156年)
定信は、23年の歳月をかけて、一切経を1人で書写した人物としても有名です。そのため速書きで右肩上がりのやや独特の書風です。
定信筆と確定しているものは本願寺本三十六人歌集(貫之集下・中務集・順集)、金沢本万葉集、久能寺経などです。 - 藤原伊行(1139年? – 1175年?)
伊行の時代になると、情勢が少し変わってきます。藤原忠通(1097~1164)の法性寺流が台頭してきて、この書きぶりが一世風靡します。世尊寺家の書き役としての名誉を保つため、娘の伊子に書論書の『夜鶴庭訓抄』を授けます。これは日本においてのはじめての書論です。
伊行の書は、父定信と2人で書き分けた戊辰切、葦手下絵和漢朗詠集があります。この時代を象徴するかのように、やや側筆ぎみの書風です。 - 藤原伊経(? – 1227年)
- 世尊寺行能(1179年 – 1255年?)
- 世尊寺経朝(1215年 – 1276年)
- 世尊寺経尹(1247年 – ?)
- 世尊寺行房(? – 1337年)
- 世尊寺行尹(1286年 – 1350年)
- 世尊寺行忠(1312年 – 1381年)
- 世尊寺行俊(? – 1407年)
- 世尊寺行豊(? – 1453年)
- 世尊寺行高(1412年 – 1478年)
- 世尊寺行季(1476年 – 1532年)
世尊寺流の書風・特徴
世尊寺流の祖である藤原行成は小野道風の書風を受け継ぎました。
藤原行成と小野道風の2人は、平安時代中期を代表する能書家3人「三跡」に選ばれる人物です。
もともと、道風は規範を王羲之からとっていた人物です。それにしたがって行成も王羲之を追求しました。
また、道風の生きた時代は日本独自の書風「和様の書」が誕生した時代です。その後、洗練に洗練が重ねられて、ついに行成にいたってその頂点に達しました。つまり、書道史は、これを和様書道の完成といいます。
藤原行成は小野道風を尊重した
小野道風は、966年(康保3年)老病73歳で亡くなりました。
その6年後、972年(天禄3年)に藤原行成が生まれました。
当時、小野道風の書は一世を風靡しており、藤原行成はこのような道風流行の全盛時代に少年期から青年期を過ごしました。
2人は生存年代にずれがありますが、行成は道風にそうとう熱を入れ込んでいたようです。
彼の身辺には数々の道風真跡を収集していたことがわかる歴史資料があります。
- 1004年(寛弘元年)10月8日
行成は、道長に秘蔵中の「仮名本七巻」と「道風二巻」を貸与した。これは、道風筆白氏文集の新楽府二巻と思われます。(『御堂関白記』) - 1006年(寛弘3年)1月9日
早朝、行成は道長邸に参向、行幸贈物の料として、「六帖」(白氏六帖・「道風□二巻」(□部分は虫損。道風本か道風手か)を贈与する。(『権記』) - 1011年(寛弘8年)8月11日
行成は長男・実経の童殿上(貴族の子どもが、宮廷の作法を覚えるために、清凉殿袛候を許されること。はじめて官位をさずかる)を道長に謝し、沉筥二合に収めた書法(一合道風書三巻一合唐本三巻)を贈る。(『権記』) - 1011年(寛弘8年)8月23日
行成の子・良経の元服にあたり、尊者(主賓)として来訪の道長に、書法二巻(一巻道風手跡真草、一巻唐千字文書法)を贈る。この手本は、青羅の表紙を張り、唐組紐で結び紫檀軸で飾られていた。沉木螺鈿筥に収め、黄朽葉薄物で包み、銀でつくった女郎花の枝につけたという(『権記』)
このように、彼の庫中には、たくさんの道風の書跡が秘蔵されていたことがわかります。
そんな彼であったので、道風の書跡が本物か偽物かを見きわめる鑑識眼をもっていたようです。
そうした事情を想像させる記録が、彼の日記の中に見えます。
『権記』(1009年〈寛弘6年〉3月4日条)に、
左衛門督被参四条宮、有送物、道風仮字本二巻、裏白薄物、以白組結之、又随身腰差、判官二疋云々、前一品宮に被参、無比事云々、今朝自四条大納言御許被送件本、可定善悪云々、又参宮之間、被仰件送物可有不之事、…
この「善悪を定む可し」という部分が、つまり、真偽の鑑定を願いたい、ということです。そして、その鑑定依頼を受けたのが行成です。
これらの資料から、藤原行成は小野道風を尊重していたことがうかがえます。
世尊寺流の呼び名の由来
世尊寺流は、藤原行成を祖とする書道流派の1つです。
では、どうして世尊寺流という呼び名がついたのでしょうか。
世尊寺流の呼び名の由来については、『雍州府志』『拾芥抄』という書物からよみとれます。
世尊寺というのは、その名のとおりお寺の名前です。
はじめこのお寺は清和天皇の第6皇子貞純親王(873~916)の邸宅でしたが、のち行成の祖父・一条摂政藤原伊尹(924~972)が受け継ぎました(理由は不明)。その後、この邸宅は行成母方の祖父・保光の手に移りました。
行成も少年時代はこの邸宅内で生活をおくりました。11歳で元服をあげたのもこの邸宅内でした。
しかし、このやしきは行成によってお寺へと改築されます。
やしきをお寺に改築するのは当時の貴族たちではよくあることでした。たとえば、10円玉の平等院(鳳凰堂)も藤原頼道(992~1074)の別荘をお寺に改めたものです。
世尊寺の改築は行成によって企画され、1001年(長保3年)2月29日、行成30歳のとき改築工事が完成しました。
そして、このお寺の名前が家名に置き換えられるようになったのは、鎌倉時代に入って、8代目の行能(1178~1239)の時からです。行成が生きていた当時から世尊寺家という呼び方がされていたわけではないようです。
これが後世、書流名「世尊寺流」の由来です。