王羲之(おうぎし)について解説/王羲之とはどんな人物だったの?なにがすごいの?

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王羲之おうぎし(303〜361)は、中国・東晋とうしん時代の書家にして政治家。書道史上もっとも重要な人物であり、「書聖しょせい」と称されます。

名門貴族に生まれながら中央の高官を辞退し、地方で民のために尽くした人物です。その高潔な人格と、楷書・行書・草書すべてに通じた書の技術が、のちの唐の太宗皇帝に愛され、1700年経った今もなお手本として学ばれ続けています。

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目次

王羲之とは?——30秒でわかる基本情報

伝王羲之肖像 『歴代聖賢半身像』より
伝王羲之肖像 『歴代聖賢半身像』より
項目内容
名前王羲之おうぎし
生没年303年〜361年(享年59歳)
あざな逸少いっしょう
通称王右軍おうゆうぐん(右軍将軍の官職から)
出身琅邪ろうや(山東省臨沂りんぎ市)
時代東晋とうしん
職業政治家・書家
代表作蘭亭序十七帖集王聖教序
家族息子・王献之(二王の小王)

王羲之は「書聖」、つまり書の世界における聖人です。楷書・行書・草書のすべてに精通し、それまでの書の伝統を集大成して新たな高みに引き上げました。彼の書風は東アジアの書道の基盤となり、日本の書道教育にも大きな影響を与えています。

王羲之の生涯——内気な少年から「書聖」へ

戦乱の中に生まれる(1〜22歳)

王羲之の出身地 山東省臨沂市の地図
王氏家系図
王氏家系図

王羲之は、古くからの名門貴族である琅邪ろうや山東省さんとんしょうおう氏の一員として、西晋せいしんの末期に生まれました。東晋とうしん王朝の建国の功労者である王導おうどう王敦おうとんは、王羲之の父・王曠おうこう従兄弟いとこにあたります。

王羲之は若くして父と離別し、母や兄によって育てられました。父・王曠おうこうは王羲之が7歳のとき、北方勢力(ちょう劉聡りゅうそう)との戦いに敗れ失踪しました。部下を救うために投降したとも伝えられます。

王羲之の生きた時代 - 中国王朝・日本の時代の対比

当時の中国北部は、皇族同士が権力を争った「八王はちおうらん」をきっかけに匈奴きょうどなどの北方民族が侵入し、311年には都・洛陽らくよう陥落かんらくしました(永嘉えいからん)。北方に住んでいた貴族きぞくや民衆は、戦火せんかを逃れて南方へ大量に移住します。これが「永嘉の南渡えいかのなんと」です。

永嘉の南渡 - 311年洛陽陥落から317年建康での東晋建国

王羲之の一族・琅琊ろうや王氏もこの南渡の中心でした。叔父おじ王導おうどうは南に逃れた皇族・司馬睿しばえいを支え、建康けんこう(現在の南京)に東晋とうしんを建国させます。「王と馬(司馬しば)で天下を共にす」と言われるほど、王氏は東晋とうしんの政治を支える一大勢力でした。

王羲之も10代前半で一族とともに南方へ移住した一人です。戦乱せんらんから離れた南方では、貴族きぞくたちのあいだで書道・文学・清談せいだん(哲学的な議論)といった文化活動が盛んになりました。こうした穏やかな環境が、のちに王羲之を「書聖しょせい」へと導く土壌どじょうとなったのです。

10歳にも満たない幼少のときに父を亡くした王羲之は、伯父の王導おうどうによって養育されました。王導おうどうとは当時一番の政治家です。王羲之はそんな王導に育てられる、いわばプリンスでした。

内気な少年時代

王羲之についての伝記をみていくと、少年時代は人見知りする内気な性格であったことがうかがえます。

少年時代の王羲之について、『晋書』本伝によると、
幼いころには言葉がすらすらと出ないために、周囲の人たちは王羲之に注目していなかった。
といいます。

また、『世説新語』軽詆けいてい篇には、こんなエピソードがあります。
ある日王羲之が伯父の王敦おうとんのもとにいた時、あとから王導おうどう庾亮ゆりょうがやってきた。口が重く、人との対応がうまくなかった王羲之はその場を外そうとしたところ、王敦おうとんはそれをとどめて、
「来たのは、おまえの家の司空(王導おうどうのこと)だ。元規(庾亮ゆりょうのこと)だって何も難しい男ではない」
と言って王羲之をその場に居させたといいます。

内向的な少年が、やがて書の世界で頂点に立つ。書道を学ぶ者として、勇気をもらえるエピソードです。

婿選びのエピソード——飾らない人柄

王羲之は、門閥貴族である郗鑒ちかんの娘と結婚しました。彼が20歳の年、伯父の王敦おうとんが反乱の兵を挙げていることから、結婚の時期はおそらくその前の18、19歳のころと考えられています。

結婚相手の名前はせんあざな子房しぼう。ちなみに『書断』によると「晋の王羲之の妻の氏、甚だ書に巧みなり」とあります。

この結婚については、次のような話が伝えられています。

「そのころ、王氏の若者たちはみな、族長である王導おうどうの屋敷に集まって暮らしていた。郗鑒ちかんの使者が婿むこ選びにやってくると王導は、東側の建物に使者を案内して自由に選ばせた。そうと察した王氏の若者たちは、みなそれぞれましこんでいたが、1人だけ寝どこの上に腹ばいになって関心を持たずに何やら食べているのがいた。それが王羲之であった。」

王氏の若者がみんな郗鑒ちかん婿むこ選びの使者を意識してましこんでいるのに、王羲之だけが彼らと同じように自分をよく見せようとしなかったのです。

使者が帰ってその様子を報告すると、郗鑒ちかんは王羲之の物にこだわらない態度が気に入ったのか、
「まさしくその子がいい」
と言って、王羲之を婿むこにきめました。(『晋書』王羲之伝)

名誉や見栄にこだわらない——王羲之の飾らない人柄をよく表すエピソードです。そして、王羲之は名族の郗鑒ちかんの娘・郗璿ちせんと結婚したのでした。

政治家としての出発(23〜37歳)

現代では書家として有名な王羲之ですが、本業は政治家でした。当時は貴族が政治を担う時代。王家は名門貴族であり、しかも王導おうどうに育てられていた王羲之は政治家として出世することは間違いなかったでしょう。

しかし、王羲之は中央での政治を断り、地方の役人として民衆に尽くしました。政治家としてどのような身の振り方をしていたのか——とくに後に紹介する会稽内史かいけいないしでの活躍に注目です。

最初の官職は秘書郎ひしょろう

王羲之は20歳のころ、郗鑒ちかんらの推挙を受けて秘書郎ひしょろうに任命されます。秘書郎ひしょろうは宮中の蔵書を管理する閑静かんせいな官職で、まず秘書郎から仕官することは一流の貴族であるあかしとされていました。

当時、宮中に所蔵されていた図書典籍は決して多くはありませんでしたが、王羲之は鍾繇しょうよう張芝ちょうし索靖さくせい皇象こうしょうらの名跡に触れられる恵まれた環境にありました。

庾亮ゆりょうのもとで参軍さんぐんとなる

その12年後、王羲之32歳のころ、征西将軍せいせいしょうぐん庾亮ゆりょうわれ参軍さんぐんとなりました。参軍さんぐんとは、古代中国の官職名で、軍事についての相談・軍の計画立案などを行う職のことです。

王羲之は庾亮ゆりょうの部下として、しんの国政をになう人たちとともに政治家としての経験を積んでいきました。庾亮ゆりょうに従って武昌ぶしょうに移り、334年(咸和かんわ9年)から、庾亮ゆりょうが病気により亡くなる340年(咸康かんこう6年)までの約6年間を武昌で過ごしました。

庾亮ゆりょうが病を患った際、王羲之を朝廷に推薦して、
清貴にして鑒裁有り(清貴なる人で、人の能力・心を見抜く力を持っている)」
と評しています。

政争と理想のはざまで(38〜52歳)

339年(咸康かんこう5年)7月には王導おうどうが、8月には郗鑒ちかんが亡くなります。年が明けた正月には庾亮ゆりょうも亡くなってしまいます。3人の強力な後ろ盾を失った王羲之は、政争の渦中に巻き込まれていきました。

江州刺史として地方を治める

庾亮ゆりょうが亡くなってほどなく、王羲之は江州刺史ごうしゅうししに任命されます。王羲之38歳の時です。刺史ししとは、地方軍を指揮する将軍のことです。

当時、権力闘争の争点となっていた江州ごうしゅう江西省こうせいしょう)の地は、じつに厄介な土地で、前任者は毒酒が贈られたり、離任を迫られたりしたあげく、苦悶くもんのうちに他界しました。王羲之は血なまぐさい江州を数か月で離れ、建康けんこう(南京市)の邸宅で過ごした数年間に、書道の腕前を格段に上達させました。

中央政府に招かれるが辞退する

江州刺史ごうしゅうししの任を終えて、王羲之は朝廷から何度も招かれていたことが記されています。
「王羲之はすでに若いころから美誉びよがあった。朝廷の公卿くぎょうは、みなその才能を愛し、しきりにして侍中じちゅう吏部尚書りぶしょうしょとなさんとするも、みなかず。また護軍将軍ごぐんしょうぐんを授かるも、また推遷すいせんして受けなかった。(『晋書』王羲之伝)」

王羲之の高潔な人格と能力は、朝廷の重臣たちに高く評価され、侍中じちゅう(皇帝の秘書長)や吏部尚書りぶしょうしょ(官吏の任用を担当する役所の長官)という重職に推薦されましたが、王羲之はそれらをすべて辞退してしまいます。王羲之は中央よりも地方で暮らしたいタイプの人だったのです。

護軍将軍となり中央の内乱を治めようとする

朝廷からの招きを断っていたにも関わらず、永和4年、王羲之46歳の時、旧友殷浩いんこうの勧めによって中央の役職護軍将軍ごぐんしょうぐんに任命されます。護軍将軍ごぐんしょうぐんとは、宮中の軍勢の指揮権を司り、諸将を統括する人のことです。

では、どうして最終的に護軍将軍を引き受けたのでしょうか。

当時、建威将軍けんいしょうぐん揚州刺史ようしゅうししとして朝廷の政治に参加していた殷浩いんこうと、そのころ次第に勢力を振るい始めた荊州刺史けいしゅうしし桓温かんおんが勢力争いをしていました。

殷浩いんこうは、かつて庾亮ゆりょうのもとで王羲之と同僚だったため、自分を補佐してくれる人材として、知名度もあり能力もある王羲之に護軍将軍ごぐんしょうぐんを勧めていたのでした。

王羲之が護軍将軍として朝廷に加わったのは、殷浩いんこう桓温かんおんの間を平穏に保つことが目的です。
王羲之、内外協和して、国家を安定させるべしと。殷浩によろしく桓温との仲をかまわなければいけないと勧めるも、殷浩は従わなかった。(『資治通鑑』巻98)」

王羲之は殷浩と桓温が勢力争いをすれば国は大変なことになるという判断をしており、2人の間にはいって両者の仲を改善することが自分の役目だと考えていました。

しかし、殷浩と桓温の2人は若いころからライバル関係にあり、よりそうつもりは全くありませんでした。国家の安定を第一に考えての王羲之の計画は失敗に終わります。

そして『資治通鑑』巻98によれば、永和6年正月、殷浩と桓温の2人の争いは、どちらが先に北の勢力に勝ち、洛陽らくよう長安ちょうあんを奪い返すかという勝負になります(結果的には2人とも失敗に終わっています)。

王羲之は、それでなくても不安定な東晋を安定させることが第一と考えており、北の勢力に攻め込むなどもってのほかと殷浩を戒めています。しかし殷浩は王羲之の言葉に耳を貸すことなく、北の勢力の討伐とうばつの計画を着々と進めていました。

中央での政治に見切りをつけた王羲之は、地方勤務を朝廷に願い出ます
「王羲之はすでに護軍将軍を拝す。またねんごろに宣城郡を求むるも許されず。すなわちもって右軍将軍・会稽内史とす。(『晋書』王羲之伝)」
地方において少しでも人々の生活をよくしようと、会稽内史かいけいないしという地方長官になります。

会稽内史かいけいないしとなり地方を治める

351年(永和7年)に王羲之が49歳のとき、会稽内史かいけいないしになりました。会稽内史かいけいないしとは、現在の浙江省せっこうしょう紹興市しょうこうし一帯を統括する長官(知事)です。王羲之が王右軍とも呼ばれるのは、このとき兼任していた右軍将軍の官職からきています。

王羲之の代表作品蘭亭序らんていじょはこの会稽内史の時期に書かれました。会稽内史としての活躍は別記事で詳しく紹介しています。

隠居——書に生きた晩年(53〜59歳)

355年(永和11年)、53歳のとき、上官として赴任してきた王述おうじゅつと不和になったために、会稽内史かいけいないしを辞職することを決意します。

実は王羲之は何年も前から、社会から離れて安らかな暮らしをしたいと考えていました。46歳で護軍将軍を引き受ける際、殷浩いんこうあての手紙(『晋書』王羲之伝)には、次のように記されています。

「私にはもともと朝廷に仕える気持ちはありません。王導おうどうのときに私を朝廷に入れようとされましたが、私は絶対にそれを認めませんでした。その時の私の手紙は今もここにあります。あれから時間が経ちました。あなたが政治に加わったことが理由で仕えないことに決めたわけではありません。子供たちが結婚していってからは、あの尚子平しょうしへいのようにしたいと思い、そのことをたびたび親戚しんせきや知友と語り合ったものです。

尚子平しょうしへいとは

ここにでてくる尚子平しょうしへいという人は、後漢ごかんの人で、子供たちの結婚が済むと官を辞職して安らかな暮らしをおくったという人物です。

王羲之は尚子平しょうしへいのように、晩年は仕事での活躍より身近な人との悠々自適な生活を望みました。

官を辞した王羲之は、会稽の地に腰を落ち着け、服食養性ふくしょくようじょうの道を求めるなど、老荘思想ろうそうしそうを信仰し自然を崇尚すうしょうしながら、その生涯を終えました(59歳)。

彼の人物像をまとめると、中央ではなく地方の役人として、地道な活動によって国のために尽くしたい。そして、適当なところで政治の表舞台から身を引きたい——それが王羲之という人物でした。

なぜ「書聖」と呼ばれるのか——3つの理由

王羲之は「書聖しょせい」とたたえられ、王羲之の文字がもっとも正統だといわれますが、その根拠とはなんでしょうか? どうして「書聖」と呼ばれるようになったのでしょうか?

まず、王羲之を持ち上げる「書聖」というキーワードがいつごろから使われるようになったのかについて——SHODO FAM記事制作チームはさまざまな資料を探し調査しましたが、答えをみつけることはできませんでした。書道史の本や辞書を担当されている先生方にもお聞きしましたが、答えは「分からないとのことです。

しかし、王羲之がいつごろから称えられ始めたのかは分かっています。「書聖」として神格化されるようになったのは、王羲之が生きた東晋とうしん時代から約300年後の時代からです。有名な「蘭亭序」が文献に現れるのも同じく唐時代です。

理由1: 書の技法を完成の域に高めた

王羲之は、楷書・行書・草書のすべてに精通した史上まれな書家です。鍾繇から楷書を、張芝から草書を学び、それらを融合・洗練して独自の書風をつくり上げました。

王羲之は生きていた東晋時代から書を芸術的な表現にまで高めた人物と評価されており、東晋の後の宋・斉・梁時代においても王羲之の書跡は収集・鑑賞されていました。それ以前の書はどこか硬さが残る古体でしたが、王羲之の書は流れるような自然さと力強さを併せ持ちます。この革新が、書を「文字を記録する技術」から「芸術」へと押し上げたのです。六朝時代の書風の変遷を知ると、王羲之の革新性がより深く理解できます。

理由2: 唐の太宗皇帝に愛された

唐・太宗
王羲之を酷愛した太宗皇帝

簡単に言えば、唐の太宗たいそう皇帝という偉い王様に王羲之の字が好かれたため、王羲之の文字が「正解」となったのです。

歴史というのは1人の人物を誇張して高く評価して基準を作るものです。その基準として、王羲之が選ばれました。太宗は全国から王羲之の書跡を集めさせ、科挙(官僚登用試験)でも王羲之の書風が重視されました。後世の書家たちはみな王羲之の文字を習うようになり、「王羲之=書の正統」という図式が確立したのです。

太宗と蘭亭序にまつわるエピソードは、蘭亭序の解説記事で詳しく紹介しています。

理由3: 「聖人」にふさわしい人格

中国の歴史は国同士の争いや国内の権力闘争がとても激しいです。自分の理想実現のためなら手段を選ばない、前政権の一族は女性も子供も全員抹消してしまうほど。

王羲之が生きた時代も例外ではありません。そんな生きづらい世の中において、王羲之は地位・名誉よりも地方の役人として民衆に寄り添い今の地位を退くべき時には退くという人物でした。

書道家として優れているだけでは「書聖」とは呼ばれません。王羲之の前にも後にも優れた書道家はいます。しかし、「書も人格も最高」と太宗が認めたからこそ、王羲之は「聖人」の称号を得たのです。

ただ、どれほど太宗皇帝に好かれたからといっても、やはり王羲之の筆跡が書としての魅力を備えていなければ、現在までこのように学習者の手本として支持を受けていることはなかったでしょう。王羲之よりもその息子である王献之おうけんしのほうが高く評価されたり、石で刻された碑帖が尊重される時代もありましたが、王羲之の尊重は途切れなかったのです。

SHODO FAMのオンライン書道教室でも、王羲之の書を臨書する際には「字の形だけでなく、その背景にある人物像を感じながら書く」ことを大切にしています。書を通じて王羲之の人柄に触れると、筆の運びにも自然と深みが出てきます。

王羲之の代表作品

王羲之の真筆(本人が書いたオリジナル)は1点も現存していません。すべて後世の模写(臨摸りんも)や石に刻された拓本として伝わっています。それでもなお、これほど多くの人に学ばれ続けているのは、王羲之の書がそれだけ普遍的な魅力を持っている証拠です。

蘭亭序——「天下第一の行書」

蘭亭序「八柱第三本(神龍半印本)」
蘭亭序「八柱第三本(神龍半印本)」

353年、会稽(現在の紹興市)で催された「蘭亭らんてい曲水の宴きょくすいのえん」で、王羲之がその場で書いた序文です。「天下第一の行書」と称され、書道を学ぶ者が必ず通る古典中の古典。同じ「之」の字が20回登場し、すべて異なる形で書かれていることでも有名です。

蘭亭序の特徴・書き方を詳しく解説蘭亭序の全文現代語訳蘭亭記の現代語訳

十七帖——草書の名品

王羲之が友人の周撫しゅうぶに送った手紙29通をまとめた草書の法帖です。草書でありながら読みやすく、品格がある。草書を学ぶ入門として、古来より多くの人に臨書されてきました。

十七帖の内容・書風・特徴を詳しく解説

集王聖教序——唐代に集められた王羲之の字

唐の僧・懐仁が、王羲之の書跡から1文字ずつ集めて碑文を構成した作品です。「集字」という手法のため、1文字1文字は王羲之の真筆に基づいています。行書の学習教材として蘭亭序と並ぶ重要な古典です。

集王聖教序の碑文の内容・字の集め方を解説

楽毅論・黄庭経——小楷の手本

王羲之の楷書作品は「小楷」(小さな楷書)として伝わっています。楽毅論がっきろんは端正で力強く、黄庭経こうていきょうは繊細で優美。どちらも楷書の基本を学ぶうえで欠かせない古典です。

王羲之の楷書作品「楽毅論」「黄庭経」「東方朔画賛」を紹介

姨母帖・喪乱帖——真跡にもっとも近い法帖

王羲之の真筆は失われていますが、唐代の精密な双鉤填墨(そうこうてんぼく:輪郭を写し取って墨を充填する技法)による模写が残っています。姨母帖いぼじょう喪乱帖そうらんじょうは、その中でも王羲之の筆づかいをもっとも忠実に伝えるとされる法帖です。

姨母帖と喪乱帖を詳しく解説

王羲之の一族——書の名門「二王」

王羲之には7人の息子と1人の娘がいます。中でも書の才能をもっとも受け継いだのは、末子の王献之おうけんし(344〜386)です。後世、王羲之を大王だいおう、王献之を小王しょうおうといい、父子をあわせて「二王におう」と呼びます。

王献之おうけんしの書風は、父よりも自由で研媚けんびな趣があるといわれる反面、父の書に見える骨力に欠けるという評価がされています。時代によっては王献之のほうが高く評価されたこともありましたが、王羲之の尊重は途切れませんでした。

また、王羲之が学んだ書の系譜も重要です。王羲之の楷書は鍾繇の影響を強く受けており、この師弟関係を知ることで、王羲之の書がどのように生まれたかがより深く理解できます。王羲之自身の書に対する考えは、書論「自論書」にまとめられています。

よくある質問

王羲之の読み方は?

「おうぎし」と読みます。字(あざな)は逸少(いっしょう)。右軍将軍の官職にちなんで「王右軍(おうゆうぐん)」とも呼ばれます。

「書聖」とはどういう意味?いつから呼ばれている?

「書聖」は「書の世界における聖人」を意味します。王羲之は生前から高い評価を受けていましたが、「書聖」として神格化されるようになったのは、約300年後の唐の時代。太宗皇帝が王羲之の書を最高と定め、それが国の基準となったことがきっかけです。「書聖」という呼称がいつ最初に使われたかは、書道史の研究者の間でもまだ特定されていません。

王羲之の本物の書(真筆)は残っている?

王羲之の真筆は1点も現存していません。現在「王羲之の書」として知られる作品はすべて、唐代の精密な模写(臨摸)や石碑に刻まれた拓本です。それでも、これらの模写の精度は非常に高く、王羲之の書風を十分に伝えています。真筆にもっとも近いとされるのは姨母帖と喪乱帖です。

王羲之を臨書するなら、どの作品から始めるべき?

行書なら蘭亭序集王聖教序、草書なら十七帖、楷書なら楽毅論がおすすめです。初心者の方には、字の構造がわかりやすい集王聖教序から入るのがよいでしょう。SHODO FAMのオンライン書道教室では、古典の臨書を基礎から学ぶことができます。

まとめ

王羲之は、楷書・行書・草書のすべてを芸術の域に高めた書家であり、同時に地方の民のために尽くした政治家でもありました。「書聖」という称号は、書の技術だけでなく、その人格を含めた総合的な評価です。

1700年の時を越えて今もなお手本とされ続ける王羲之の書。その字をなぞるとき、私たちは東晋の空気に触れ、王羲之という人物と対話しているのかもしれません。SHODO FAMのオンライン書道教室では、蘭亭序をはじめとする古典の臨書を、書道講師の直接指導で学ぶことができます。

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