隷書は、古代中国で正式書体として使われていた書体です。やがて楷書が正式書体となりました。
4世紀後半、日本に漢字が伝わるころには、すでに5書体(楷書・行書・草書・隷書・篆書)すべてが完成しており、隷書は日本で正式書体として使われることはありませんでした。
では、日本で隷書が使われるようになるのはいつごろからなのでしょうか?またどうして隷書が書かれたのでしょうか?
日本の隷書の歴史を紹介します。
日本の隷書の歴史の流れ
日本において隷書は、室町時代以前はほとんどみられません。わずかに扁額の文字の中にいくつかそのすがたをとどめているだけです。
書道の作品として鑑賞できるものは主に江戸時代に入ってからです。
しかし江戸時代では、まだ隷書を学ぶにも良い拓本が少なく不便でした。そんな中でも、当時の書道家たちは隷書の作品を制作していました。
次の明治時代に入ると、中国清から多くの碑版法帖がもちこまれ、隷書の拓本が充実し、隷書をよくする書道家がでてきました。
つまり、日本で隷書が使われる理由としては、実用的に扁額などの題字に適していることが挙げられます。厳粛さと堂々たる威風を誇示した隷書の雰囲気は、力強く印象づけて大きく表示する必要のある題字の文字に適していたのです。
また別の理由として、江戸時代からあらわれはじめた書道家による芸術作品制作という文化的な営みにおいて、隷書という書体を題材に作品制作が行われるようになったことがきっかけと考えられます。
現在でも、隷書は日常的に使われる書体ではありませんが、芸術作品や実用面では看板やお札などの特殊な場面で使われています。
江戸時代の隷書
江戸時代は隷書の拓本が貴重だった
江戸時代は、隷書を学ぶにも良い拓本が少なく不便でした。
隷書について知られるようになったのは、細井広沢の門下の関思恭が宋の婁機の「漢隷字源」6巻を刊行したのが18世紀の中頃、宝暦あたりからです。
1792年(寛政4年)には浪華の鎌田環斎が清の顧藹吉の「隷辨」上下巻を編集しています。その序文を奥田元継と沢田東江が書いています。
沢田東江は序文で「今よりのち、隷文の学、鴻都の旧に復す」といって、この本が刊行されたことによって隷書の正しいすがたが明らかに示されたことを称賛しています。
この本の広告欄には、「隷続」10冊、「隷釈」8冊、「隷辨」8冊、「隷字彙」15冊お刊行を予告しています。
これをみると、このころには隷書の研究がようやく深められ、その名著がつぎつぎに刊行される計画だったことがわかります。
江戸時代に使われていた拓本「夏承碑」
江戸時代に使われていた拓本として代表されるのは「夏承碑」です。
「夏承碑」というのは、中国明時代になって原石を失い、復刻したときに蔡邕の作品としたものです。今日でも宋時代の拓本とされるものがありますが、漢隷の特色が乏しく、原石からとった拓本かどうか疑わしいところがあります。
当時、「漢隷字源」や「隷辨」のような専門書が刊行されていながらも、なおこのくらいのものしかみられなかったのです。
1765年(明和2年)刊行の「汲古館書則」に隷書としてのっているのも「夏承碑」です。
法帖碑版の翻刻に力を注いで多くの手本を刊行している伊勢の韓天寿が隷書として刻したのも「夏承碑」と「曹全碑」です。
市河米庵も隷書法帖の収集に苦労した
江戸時代においての隷書の拓本のまずしさは幕末にまでつづきました。
碑版法帖の収集に努力した市河米庵でさえも、「曹全碑」を第一とし、「礼器碑」「西獄華山廟碑」「婁寿碑」などは清の王澍が推奨しているがどれもまだ見ることができていない、といっています。
また、ほかに所持している隷書の拓本ははなはだまれなり、として、
「五鳳二年刻石(魯孝王刻石)」「郫県碑」「敦煌太守碑」「王稚子二闕」「夏承碑」
の5種類を挙げています。
これをみても、隷書の名品の拓本を手に入れることがどれだけ困難だったのかが想像できます。
このような状態であったにもかかわらず、彼は隷書のみならず各書体の資料の収集と整理にあたり、「五体墨場必携」などの著述もあります。
石川丈山の隷書
江戸時代初期において、京都の東北郊、一乗寺の詩仙堂に風雅な文人生活をたのしんだ石川丈山はとくに隷書を好みました。
彼は、その詩文をしたためる際に常に隷書を用いています。
その書風はすぐにかれの書とわかるほど深い印象をあたえます。
しかし、彼が学んだ隷書は本来の漢碑(隷書法帖)にみられるような書風のものではありません。それはおそらく中国明時代に通行した手本から学んだもののように思われます。
また、石川丈山と同じころの儒者人見竹洞という人物にも隷書があり、石川丈山と書風がよく似ています。また、曼殊院の良尚入道親王も、仮名をよくしていますが、隷書もよくし、それがまた石川丈山とよく似ています。
江戸の浅草寺の額字も良尚入道親王の隷書で、松平定信の「集古十種」に紹介されています。
当時、このような基本的な書法があって、それに従って隷書が書かれたことがよくわかります。
これらの書風をみていると、漢隷(隷書法帖)の基礎の上にたっている中国の隷書から離れて、また別の情緒をかもしだしているように感じます。
明治時代の新しい隷書
明治時代になると、中国清から楊守敬が来日し、日本にたくさんの碑版法帖をもちこまれました。
その後、日本と清の交流はますます頻繁になり、北碑派の書風が日本にも伝わり、隷書の書風も一変しました。
この時代の碑文の書丹で有名な第1の人物として日下部鳴鶴が挙げられます。
彼は清にわたって楊峴に学び、また楊守敬からも学んでいます。
彼が書いた碑の数は1000にもおよび、日本全国に広がっています。
日下部鳴鶴の隷書では、
東京都世田谷の豪徳寺にある「遠城顕道師遺蹟碑」
湯島天神境内にある「湯島天神一千年祭碑」
滋賀県水口町大岡寺にある「巌谷一六碑」
京都妙心寺塔頭大竜院にある「小野湖山墓碑」
などが有名です。
彼の門下生たちは後世の書道界におおきな影響をあたえますが、そのなかにも隷書をよくした人は少なくありません。
現代の隷書
今日では、隷書の名跡のほとんど大部分を見ることができるようになりました。
碑版の影印本も中国、日本でおおく出版されていますし、宋の洪适の「隷釈」や清の翁方綱の「両漢金石記」や王昶の「金石萃編」、楊守敬の「寰宇貞石図」などの著書も広く読まれるようになって、隷書の研究と鑑賞に不自由することはなくなりました。
隷書はその本来の性質のうえから、特殊な用途をもってなお社会に生命を持ち続けているものであり、漢字が使用されているかぎり、今後も芸術作品や実用面においてもこの書体は使われていくでしょう。
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