中国東晋時代につくられた爨󠄀宝子碑と、劉宋時代につくられた爨󠄀龍顔碑は、おなじエリアの雲南省にあることから両碑を「二爨󠄀碑」とよび、また碑形の大小によって、爨󠄀宝子碑を「小爨󠄀」、爨󠄀龍顔碑を「大爨󠄀」ということもあります。
今回はそんな2つの碑、爨󠄀宝子碑・爨󠄀龍顔碑について解説します。
爨󠄀宝子碑(さんほうしひ)
爨󠄀宝子碑(405)は、雲南省曲靖県の県城内第一中学校の「爨󠄀碑亭」に納められています。
碑石は円首で190×71㎝。碑頭の中央部に題額が5行、各行3字で書かれています。
碑文は12行、各行30字、ついで紀年1行を款し、全部で336文字あります。
爨󠄀宝子碑の内容
爨󠄀宝子碑の内容は、振威将軍・建寧太守に在任のまま、23歳の若さで亡くなった爨󠄀宝子の徳をたたえた、弔いの詞が書かれています。
爨󠄀龍顔碑(さんりゅうがんひ)
爨󠄀龍顔碑(458)は、爨󠄀宝子碑のある曲靖県から南へ約60㎞の貞元堡の、貞元堡小学校脇の、もと斗閣寺であった碑亭内にあります。
碑石は、高さ338㎝、上部の広さ135㎝、下幅の広さは146㎝もの大きな碑です。
碑陽には、24行、行ごとに45字、全部で904字で、爨󠄀龍顔の功徳を称える文が書かれています。
碑陰には、建碑に関わった人名を、左右に3段で列記しています。
碑の文章をつくった撰者は爨󠄀道慶、その修辞は四六駢儷文です。
爨󠄀龍顔碑の評価が高まったきっかけ
爨󠄀龍顔碑は、元時代の李京『元朝志略』、明時代の周弘祖『古今書刻』、凌迪知『萬姓統譜』にみえていましたが、清の中期まではほとんど注目されていませんでした。
爨󠄀龍顔碑を書道の歴史上に押し出したのは、阮元(1764~1849)です。
阮元は、1826(道光6年)に雲南総督の要職に就任して、この地に立つ爨󠄀龍顔碑を訪ね、碑文の終わり2行下の空所に、
「この文体書法は、皆に漢晋の正伝なり。これを北地に求むるも得べからず。乃ち雲南第一の古石なり。それ永く宝護せよ」
と刻跋しました。
中国では当時北碑派書道が流行しており、阮元は考証学方面で大きな影響力を持っていました。そのため彼が高く評価した爨󠄀龍顔碑の知名度は加速度的に高まりました。
さらに爨󠄀龍顔碑をもっとも高所に押し上げたのは清末の康有為です。
康有為は、著書の『広藝舟双楫』に南北両朝の碑誌70種類を挙げて、〈神品〉以下6等に優劣をつけました。その〈神品〉の首に、中嶽嵩高霊廟碑、石門銘とともに爨󠄀龍顔碑をおきました。
爨󠄀龍顔碑こそは、
「画を下すこと昆刀もて玉に刻すが如く、但だ渾美を見る。勢を布くこと精工の画人の如く、各々意度あり。まさに隷楷の極則となすべし」
と褒めたたえています。
爨󠄀宝子碑・爨󠄀龍顔碑の書体は「銘石書」
爨󠄀宝子碑の書体については、清末の書道家趙之謙が八分(『補寰宇訪碑録』)とし、楊守敬が「八分より楷に入るの漸」(『平碑記』)といいます。
また、張徳容が「文 別体多く、隷にして行楷の勢あり。北朝の緒碑と 大致 相い同じ」(『二銘草堂金石聚』)といいます。
上で紹介した康有為も同じように、明清時代の碑学派の評家たちから、従来、爨󠄀宝子碑・爨󠄀龍顔碑の書体について、隷書から楷書へ移るきざしをみせるもの、といった見方がされてきましたが、現在こうした認識は歴史資料が乏しかったための誤りとされています。
ただしくは、爨󠄀宝子碑・爨󠄀龍顔碑の書体は、石刻に用いる公用の「銘石書」に分類されます。
爨󠄀宝子碑・爨󠄀龍顔碑が書かれたのは5世紀ですが、楷書が完成するのは3世紀ごろとされています。5世紀にもなれば見事に完成した楷書の墨跡をみることができます。
こうした筆写体の楷書がおこなわれている一方で、石刻に用いる公用体としての「銘石書」も同時に使われていたのです。
ただ爨󠄀龍顔碑のほうは、新興の通行書体である楷書の雰囲気を格段に組み込んだ形をしています。筆法面でも、右上がりがつよく、「トン・スー・トン」の三過折がよくみられます。
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