倪元璐(げいげんろ)は、個性がひしめく明末書壇のなかでもとくにユニークな作品を書いた書家です。
そんな倪元璐について、どんな人だったのか、作品の特徴を解説していきます。
倪元璐(げいげんろ)の基本情報
倪元璐は、1593年(万暦21年)~1644年(崇禎17年)に生きた人です。
上虞(浙江省紹興市)の人。
字は玉汝、雅号は鴻宝・園客。諡(死後に贈られる名前)は文正(清朝では文貞と改められる)です。
倪元璐の人生/彼はどんな人だったのか
倪元璐はとても優秀な高級官僚だった
1622年(天啓2年)30歳のときに科挙(官僚登用試験)に合格して進士となります。同年の進士に黄道周と王鐸もいました。
初めは庶吉士となります。庶吉士とは、科挙に合格した進士の中から素質のある者を選び、翰林院で様々な知識を学ばせてから各種の職を授けるというもので、今日でいうと研究生に当たります。その後優秀な者は翰林院に残って編修または検討の職を授かります。
倪元璐は翰林院で国史の編修を任されました。とても優秀な人だったのです。
1625年(天啓5年)病気を理由に官を辞職し、一旦郷里に帰りますが、同7年、朝廷に復帰すると江西の郷試を担当しました。
皇帝からの信任を得る
同じ年(天啓7年)の8月に皇帝が亡くなり、その弟が即位しました。これが明朝最後の皇帝・毅宗です。
倪元璐は宮中に暴威をふるっていた宦官魏忠賢を処刑し、その仲間たちをことごとく排除しました。
その結果、毅宗からの信任を得て累官し、内紛の絶えない朝廷内において次第に影響力をもちました。
そして崇禎8年(1636)には国子祭酒に至りました。しかし、政争の激しいさなか、「妾(側室)が妻を装った」と手続き上の不備を告発されて解任されてしまいます。のち6年ほどは郷里に隠栖しました。
崇禎15年に戸部尚書・翰林院学士として復官しますが、いよいよ困難な生活を強いられることとなります。
つまり、時期としては明王朝末期、傾きかけていた国勢を再建すべく、倪元璐は財政の立て直しに尽力しました。しかしすでに国勢の傾きは経済とともにどうにもしがたく、国の最期へと向かうのでした。
皇帝を追って自殺するほどの忠誠心
崇禎17年、新王朝清の李自成軍に首都北京を脅かされ、宦官の裏切りによって北京城が攻めおとされると、毅宗皇帝はみずから首をくくり、事実上明王朝は滅ぶことになります。倪元璐も皇帝の後を追って首をつって自殺しました。52歳の時でした。
莫逆の友であった黄道周とともに、国に殉じた忠臣烈士として称えられています。
倪元璐の作品の特徴/作品紹介
倪元璐は晋の書法を重んじ、若いころは蘇軾を集中的に学びました。
しかし伝統的な書の学び方にこだわらず、我法を求め、彼の行草作品は他とは変わった雰囲気があります。
横画を反らし、鋭い筆力で紙を切るように、また木の葉が舞い落ちるようなリズムで一気に書きおろします。
一気に書きおろしますが、筆圧・抑揚・遅速などの変化がきちんと備わっています。
晩年の作品とされるものは、小ぶりの硬剛筆を厳しく渋りながら運筆し、骨気と超俗の趣をそなえ、「霊秀神妙」と評価されていることに納得できます。
釈門:滿市花風起、平隄漕水流、不堪春解手、更爲晩停舟。上埭天連雁、荒祠水蔽牛、杖藜聊復爾、轉盻夕陽游。元璐似樂山辭丈。
釈門:橋影如長練,肥蛙侮瘦駒。十山則一水,東佛而西屠。竹倩花(雲)為客,花因蝶作俘。壚頭糟氣好,何處得三蚨。雲。 元璐。